余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前 「始まりと終わり」

明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました」。         マタイによる福音書27章62-63節

 

 ☆

思い出した。

「三日後に復活する」そう云っていた。

まったく! この祝いの杯を飲み干そうというこの時に思い出すなんて!何といまいましい! これから、ピラトの所に行こう。

 

☆☆

そうです、閣下。

もしも、もしもです。万が一に、です。あり得ない話しですが、でも、三日後に奴の体がなければ、いや閣下、閣下は、気を悪くなさらいでいただきたい。もちろん仮定の話しです。仮に、いえ、閣下がこの聖なる都(エルサレム)にご滞在のその時に、かような不逞のやからが、閣下のご隷下で何事かをできるはずがないことは、私どもも努々(ゆめゆめ)承知をいたしております。ただ、万万が一という、そういう事でございます。はい。私どもは神殿衛士(えじ)を出しまする、ええ、もちろんです。でも、私どもの衛士(えじ)では、その装備が、はい、軽装でございます。ええ、承知しております。この時節に、閣下の直衛の軍団をお借りするのは、はい、もちろん無理は承知でございます。ただ、万万が一に、はい、仮に、本当に、仮に、でございますが、彼の者の墓が、閣下がおわしますその時に、墓がでございますよ、空(から)になるなどというような事がでございます、はい、もしも、そのような事が発生いたしますと、ええ、そしてその事がローマにまで聞こえまして、皇帝陛下のお耳をけがす、というようなことがございますと、です、いえ閣下、お怒りにならずに。あくまでも、もしも、でございます、はい。もちろんです。私どもは閣下と一心同体でございます。はい、私どもの口は、滅法固いのでございます。はい? 承知しております。ローマ帝国の軍団兵を警備にお出しいただくわけですから。はい、もちろんでございます。閣下には格段のご配慮を願うわけですから。はい。ご英断、感謝いたします。はい。サンヘドリンを代表して謝意を…、はい? あ、おたち…。

 

サンヘドリンの年寄りどもめ。

臆病風に吹かれおって。自分たちで十字架上での死に追い込んでおきながら、亡霊に早くも怯えておるわ。政敵を死に追いやるなど日常茶飯事のローマの政局など、あれではとても生き抜けまい、笑止なことよ。

そうだ。

確か、あの十字架の時に、当番士官であった百人隊長がおったな。コルネリオとか云う大尉、あの者の隊に預けるか。

始まりも見たのだ、終わりも見させよう。

 

◆◆

なに? 例の百人隊長は、あの十字架の出来事の任務の後に、休暇に入った? あげく、除隊を申請して来て、それを認めた?

どうして? 言語明瞭意味不明です? どういうことだ? 何と、あの十字架を直近で目撃して、“かぶれた”、とな。ははっ!、ローマ帝国軍人ともあろう者がか! よいよい、除隊でよい。ああ、構わぬ。何、つまらぬ小遣い稼ぎだ、誰でもよい。そうだな、予備槍兵でも出しておけ。いや、待て。本当に復活したらどうしよう。ええい、何を弱気な事を。予備槍兵でよい。そうだ。それでよい。

 

☆☆☆

結局、金か。

ローマの高官と云いながら、むしり取れるだけむしり取りに来ているだけの者よ。話しをするとこちらの口が腐るわ。

何? こっちは銀30枚を返して来た? バカか。あのようなことに用いた金を、受け取れるわけがないわ。絶対に、神殿に入れるな。市井(しせい)で使え。今はそれどころではないのだ。

予備槍兵だと? ピラトは、ロートルをまわして来たのか。無礼な。

 

☆☆☆☆

だから云わんこっちゃない。彼の者の弟子たちが「復活なさった、復活なさった」と飛んで跳ねておるわ。全くいまいましい。

ピラトはどうした? 何? 祭りの後、すぐにカイサリアに帰っただと? 王は? アンティパス王も一緒に帰っただと? いつからつるむようになったのだ、あのタヌキとキツネは? 

よいわ。金で黙らしておけ。判らぬか? 「事実(ほんとうのこと)」とはな、作るものよ。よいか、小難しい事をならべた「真理(ほんとうのこと)」なるものの前に、理解しやすい「事実(ほんとうのこと)」をぶらさげてやればよいのだ。“死者が復活した”、というのが「真理(ほんとうのこと)」ならば、“弟子たちが盗み出した”、という判りやすい「事実(ほんとうのこと)」を云い広めればよいのだ。この聖なる都(エルサレム)は、いつでもこのように「情報(ほんとうのこと)」を作り出して身を守るのだ、と知らしめてやれ。

ああ、これで本当に祭りの後だな。やっと街が静かになったわ。

 

除隊した。

即応予備士官になった。

予備役編入も悪くないな。

さて、もうこの都市(エルサレム)には用がないな。

カイサリアにでも行って、のんびり暮らすことにしよう。

その内、あの「神の人」の弟子たちが、彼らが知った「福音」を告げに来る時がやって来よう。

私も見た、あの方の事を伝えに、な。

「神の人」の弟子たちの働きを見届けよう。

神は、私に、十字架の死という始まりを見せ給(たも)うたのだ、終わりもまた、きっと見させてくださるに違いないであろう。

 

◎ 参考聖書個所( – 標記以外 – )

・ マタイによる福音書28章11節以下

・ ルカによる福音書23章6節以下

・ 使徒言行録10章1節以下

 

 

余yoteki滴 2017年4月16日

「たまご」

 

ご隠居さん、イースターおめでとうございます。で、えへへ。

「なんだ、変な笑い方だな、その差し出された手は、何を要求しているのかな?」

 

いえね、イースターだから、「ご復活玉」をいただこうと思って。

「『ご復活玉』だって? 聞いたことがないな? なんだねそれは?」

 

お正月には、お年玉。それで、イースターには「ご復活玉」がいただけると。

「ははぁ、どうもすごいこじつけだな。ご復活祭の玉子のことだろう? 確かに、ご復活祭を、玉子をもって祝う習慣があるな。玉子やうさぎがご復活祭の、いわば目印だな。でも、『ご復活祭の玉子』を『ご復活玉』だなんて縮めて云うのは聞いたことがない」

 

いえ、こども衆は「玉子」でいいんですけどね、あっしらは、のし袋に入った「ご復活玉」。

「なんだいそれは。手を出しても、教会でいただいて来た玉子だけだ、あげられるのは」

 

なんだつまらない。

「つまらない、とは何だ。ご復活祭の玉子だぞ。ありがたくいただくと寿命がたんと伸びる」

 

本当ですか? 寿命が伸びるというのであれば、玉子の10(とう)や20(にじゅう)は、…

「おいおい、そんな無理して食べちゃいけない。ほら、そんなにほおばるから。苦しかないか? 寿命が伸びるなんて、戯れ言だよ。信じちゃぁいけない。おや、大変だ。ばあさんや、水をもって来ておくれ。水! あれ? 水って、おまえさん、馬に飲ませるんじゃないんだよ、バケツで水を持って来てどうするんだね? 何、頭からかぶせる? って乱暴な。ほら、目を白黒させてるじゃないか。飲ませる水を持って来てあげなさいって。何? お前さんも苦しいのに何かしゃべろうとしない。えっ? 何んだって? ご復活祭の玉子で苦しい? 判ってますよ。ああ、やっと喉を通った。ああ、びっくりした。大丈夫かね」

 

大丈夫だと思いますがね、いやあ、ご復活祭の玉子でイエスさまの十字架上の苦しみが少し判ったような気がしました。まさにこの苦しみが、“鶏卵のキリスト”なのですね。

「お前さん、それはまさか“荊冠のキリスト”のもじりかね?」

 

はは、ちっと苦しい。

– お後がよろしいようで –

余yoteki滴 2017年4月9日

「枝の主日」

 

ご隠居さん、お迎えが来ました。

 

「おまえさんねぇ、いきなり“お迎えが来ました”、なんて声を掛けてはいけない。そうかなぁ、と思っちゃうじゃないか。何か用かね?」

 

嫌だなぁ、約束してたじゃないですか。花見ですよ、は・な・み! ですから長屋のみんなしてお迎えに来た、と、そう云う訳ですよ。

 

「ああ、そうだったな。でも、今日は行かれない」

 

どうしてですか? ちょうどいいあんばいに咲いていますよ。行くのだったら今日が一番、って感じですけど。

 

「今日はな、“棕櫚の主日”或いは“枝の主日”と云ってな、イエスさまがエルサレムに入城されたことを覚える日だな。そして今日からの一週間を、“受難週”とか“聖週”と呼ぶ。だから私も、斎戒して主のご受難を覚えて過ごす、とそういうわけだ」

 

へえぇ、でも、どうして今日のことを、“棕櫚の主日”って云うんですか?

 

「それはおまえさん、今日、イエスさまがエルサレムにお入りになったな。その時、人々が棕櫚の枝や自分の上着を敷いて、ろばの子に乗ったイエスさまをお迎えした、と聖書に書かれているからだ」

 

イエスさまが今日、エルサレムに入られたとすると、沿道はごった返していたでしょうねぇ。

 

「それでなくとも“過越しの祭”に人が集まっている時だ、エルサレムは人であふれていたな。人の波、というやつだな、歩くのも大変だ。道行く人たちに押されながら歩くようなものだ。その最中に、イエスさまがろばの子に乗ってご入城なさるわけだ。押すな押すな、の人だかりだな」

 

すごいものですねぇ、ところで、エルサレムに桜はないんですか?

 

「そうだな、この時期だと、同じバラ科のアーモンドの花とかが咲くな」

 

そうすると、イエスさまも花見はなさったのですかねぇ。

 

「お前さん、どうしてもあたしを花見に連れて行きたいみたいだな。イエスさまもきっとアーモンドの花は御覧になったと思うな。でも、花見気分ではなかっただろうな」

 

そうでしょうねぇ。ろばの子に乗っているんじゃぁ、なおさらだ。

 

「ん? どうして、ろばの子に乗っていると、花見にならないと思うんだね」

 

だってご隠居、人でごった返している時にろばの子に乗っているですよ、「子ロバ」ないようにするだけでも大変だ。

 

– お後がよろしいようで –

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月26日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その4)

さて、私は、自分の目にある丸太に、気づくことができない(マタイ7:4)。

そして、丸太で目がふさがれているから、私は「不平」を言う(20:11)。

「家の主人」が、神が、何度もなんども、いつの時も、語りかけ、招いてくださった、神と私との「約束」(協定 / 契約)の、その大きさ、無限さには目を向けず、他人が、神さまから恵みをいただく時には「不平」をならす。その「悪しき」思いは、ただ、私の内からのみ、出る。

神は、そねみ、「一歩、一歩を踏み誤りそう」(詩 73: 2)になる私に、「悪しき」を内にかかえ続けている私に、その内側のままでいい、潔(きよ)いとは言えないままでよい、そうおっしゃり、声を掛けてくださる。

あなたも、「ぶどう園に行きなさい」、私のところに来なさい、と。

だから私は、このままで、「悪しき」目のままで、その目を覆いつつ、主のもとへ、「ぶどう園」へ歩み出して行く。

私には、自分の目を覆うことしか、できないから。

「悪しき」目で、主よ、あなたを見ることはできないから(イザヤ書6:5)。

あなたが、そのままでよい、と言ってくださる。

だから、私は、片方の目で、「悪しき」目ではあるけれども、その目を開いて、あなたの「ぶどう園」への道を、捜し求めて歩み出す。

そう、主よ、このままで、私も、あなたの「ぶどう園」への道を、この四旬節に、歩み出す。

あなたの、呼び掛けてくださる声にのみ、信頼して。

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月19日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その3)

私は「家の主人」の声を聞く。風が吹く頃、薄暮の時が来て、暗闇が迫ってくる中で。

時間は、日没前。

一日の仕事が終わり、一日が終わろうとしている時。

だが、ユダヤの人たちの、聖書の、時間感覚では、夕は一日の始まり(「夕べがあり、朝があった」創世記1:5)。

だから、この1デナリオンをいただくこの時刻は、1日分のつとめが終わる時であるとともに、新しい一日の始まりの時。

「家の主人」は、始まろうとする新しい一日のために、1デナリオンを手渡す。

日中の労働の対価、というよりも、もっと積極的に、新しい一日を生きて行くための1デナリオンを、一人ひとりに、預ける。だから、御言葉が響く。

「信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4:5)と。

それ故、「家の主人」は言う。「気前のよさをねたむのか」(20:15)。

この箇所(20:15)、文語訳は「我よきが故に、汝の目あしきか」。

この訳は、ギリシア語で記された御言葉の雰囲気を、私たちに伝える。

1デナリオンの「協定」(シュラッターの『講解』(日本語訳)での表現)を、そのまま、“値引き”も、“交渉”も、“取り引き”もなしに、守る方である「家の主人」、つまり神の「善」(ぜん /「よき」)に、私は口を挟めない。

そして、「家の主人」である神は、はっきりと、私に、「汝の目あしきか」と言われる。

私の「目」は、最後に来た人から順に、ぶどう園の「監督」が1デナリオンを支払って行くのを見ている。そして、「不平を」言う。私の目は「悪しき」もの。

実は、この聖書の箇所は、2017年の「世界祈禱日」(3月の第1金曜日)の福音書日課。

そして、2017年の「世界祈禱日」の「式文」や「ポスター」(http: //cloister171. blog.fc2.com/ blog-entry-17. html)には、片目を右手で隠し、左手に天秤をもった女性が描かれている。

「式文」を手にした時から、この女性はなぜ片目を手で覆っているのだろうか、と不思議に思ってきた(表紙の絵のタイトルは「垣間見たフィリピンの状況」と記されている)。

やっと気がついた。

15節で、私は、「汝の目あしきか」と言われる。私の「目」は、いつでも「悪しき」もの。

この世の出来事が、ここで、私の前で起こっている現実が、「悪しき」事、なのではない。むしろ、それを見て、「不平を言う」私こそが、「悪しき」目を持っている。

私は、「悪しき」目で、「家の主人」のなさるさまを見ては、「不平」を言う。

さらに、「不平」という口を挟んでは、神の「善」(ぜん /「よき」)を軽んじている、のだと。(以下次回)

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月12日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その2)

「家の主人」は、私たち一人ひとりに声を掛けてくださる。

一人ひとりと、「約束」をしてくださる。

「家の主人」は、私と約定をかわす。それは、私の働きに応じての“評定”ではなく、「家の主人」の方から、神さまの方から、先に、“こうしよう”、と言ってくださる「約束」。

そういう「約束」を携えて、「家の主人」は、私のところに来られる。

そして語られる。しつこいくらいに何度。私と「約束」しよう、「ぶどう園に行きなさい」と。この私を、招かれる。

ところで、私の友人のご父君は、生前、年を重ねてから信仰へと歩み出した人だった。

彼は自分のことを「午後五時の労働者」と言っていた、と、葬儀の時に牧師が語っていたのを今でも思い出す。

友人の父君は、「午後五時」に、召しを聴いた、という、しっかりとした自覚に生きた。人生の後半生を(「午後五時」以降を)、“主の招きに応じた人”として歩んだ。

彼は、「ぶどう園に行きなさい」という御言葉に従って、

「何もしないで…立っている」人生をやめて、

「ぶどう園」へと歩み出す人生へと、

御言葉によって転換された。

彼は、そのことを自覚的に受けとめ、「ぶどう園」へと歩み出して行く。“私は、「午後五時の労働者」である”、と告白して。

確かに、私は、人生のある一瞬に、キリストと出会う。

私は、今、始めて、主に出会ったと思う。今、はじめてキリストの御言葉を聴いた、と思う。

でも、「家の主人」は、夜明けに、九時に、十二時に、三時に、五時にも、私のところに来られ、私に声を掛けてくださる。「ぶどう園に行きなさい」、私との「約束」に生きなさい、と。私がその声に聴き従うまでは、何度でも、私のために来てくださる。「何もしないで…立っている」生き方をやめて、私との「約束」の内を歩み出しなさい、と。

「家の主人」である神さまの呼びかけに応える、ということは、今、「立っている」、この場所を去る、ということ。

「何もしないで」も「立って」いられる、この安定をやめる、ということ。

安穏とした生活、神さまを必要としない生活から、神さまとの「約束」だけが頼りの歩みへと人生を大きく変えられる、ということ。それが、「天の国」の到来ということ。それが、到来している「天の国」に向かって歩み出すこと。そのように、「家の主人」は、私を招く。

そう、私は、いつでも、キリストから語りかけていただいている。

人生の始まりから、今、そして、終わりに至るまで。ずっと。(以下次回)

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月5日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その1)

イエスさまは、到来する「天の国」について示される。

この「天の国」は、遠くにあって、仰ぎ見るものではなく、声の届かない彼方にあるのでもない。行きつくことの出来ない深淵の向こう側にあるのでもない。この「天の国」は、あなた方のただ中に到来する、とイエスさまは、私たちに語りかけられる。

「天の国は…ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行」(マタイによる福音書20章1節)くようなもの。

「天の国」が到来するということは、「主人」がみずから「夜明け」には出発して私たちのところに来てくださる、そういう来訪の仕方で、私たちの只中に到るものだ、とイエスさまは示される。

現実に、もし、ぶどう園を所有している大土地所有者が、「労働者を雇う」としたら、彼あるいは彼女は、自分の執事に命じ、執事は荘園長に命じ、荘園長はぶどう園の管理責任者に命じ、ぶどう園の管理責任者は、現場責任者に命じ…としているうちに、「家の主人」が決めた「気前のよい」一人あたま1デナリオンという賃金は、実に見事に中間で搾取され、「労働者」一人ひとりに手渡される時には、よくて半分、まあ、1/4程度にまで減っている、ということになる。

だから、「家の主人」がみずから「労働者を雇うために」「出かけて行」くということ、そのことが、聴く者には驚き。

私たちの内に来る、来ている「天の国」は、神御自身が、みずから「夜明け」を待つようにして私のところへと来てくださる、そういう出来事なのだ、とイエスさまは、今日、私に、お告げになる。

そう、「家の主人」は、みずから私のところに来てくださる。

「家の主人」は、「夜明け」頃だけではなく、「九時ごろ」にも、続いて「十二時ごろと三時ごろ」にも私のところを訪れてくださる。さらに、「五時ごろにも」来てくださる。「天の国」は、このように到来する。神は、御自身の熱意をこのように示される、とイエスさまはいわれる。何度でも、限りなく、私のところに来てくださる、神さまの方から。 (以下次回)

余yoteki滴 2017年2月12日

「パンを持ってくるのを忘れ」

(マルコによる福音書 8 章 14 節)

☆ 弟子たちは、舟に乗るのにパンを持ってくるのを忘れた。

もっとも、向こう岸に渡るだけだから、どうしてもパンを持っていないといけない、ということではない。

でも、ペトロは、アンデレに始まって11人に、

「パンを持ってきたかい?」と尋ねると、

「水筒は持ってきた」とか、

「クッキーなら持っています」とか言うわりには、

誰もパンを持っていない。

弟子たちみんなに聞いてしまって、残っているのはイエスさまだけで、

「あのー、イエスさまは?」と言うと、

「パンなら1つある」とイエスさまがお答えになった。

そんな場面。

☆ そしてイエスさまは、弟子たちに、次の15節で、

「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種に気をつけなさい」、と

そう言われる。

不思議。

弟子たちは、“今、パンを持っていない”、ということに気持ちの中心がある。

なのに、イエスさまは「パン種」の話しをなさる。

「パン種」は、今、ここでパンにすることができるわけではない。

「イエスさま、話しがずれています」

と、言いたくなるような、そういう雰囲気。

弟子たちが“パンがない”ということで頭がいっぱいの時に、

イエスさまは、弟子たちに「パン種」のことで注意を喚起する。

イエスさまは、私たちが、

自分の関心、自分の思いにだけとらわれて、にっちもさっちも行かなくなっている時に、

「どうしよう、あれがない」、「これができない」、「あれがないと無理」、

と思っている時に、

全然関係のないこと、と私たちが思ってしまうこと、を告げられる。

本質的なことを、弟子たちに、私に、告げられる。

そういうことではないかと思う。

☆ ところで、マルコによる福音書は、「ファリサイ派の人々のパン種」、「ヘロデのパン種」の意味をはっきりとは説明しない。

ここでは次のようなことが問われているのではないか、と私は思う。

それは、「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、

“満腹”はしない、

ということ。

弟子たちは、イエスさまとのこの後の会話で、パンが12のかごにいっぱいになったこと、あるいは7つのかごにいっぱいになったことばかりをイメージしている。イエスさまは、パンを増やしてくださったのだ、と。

☆ イエスさまが弟子たちに問われている本質は、そこではない。

イエスさまが、弟子たちに、そして私たちに問われるのは、パンを食べて

“満腹”したではないか、

ということ。

「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、“満腹”しない。

ただ、イエスさまのパンだけが、私たちを“満腹”させる。そのことに気づいているか、と問われている。

☆ と、

イエスさまが弟子たちにお話ししているうちに、

舟は向こう岸についてしまった。

やっぱり、舟の中で、パンを食べる、という時間はなかった。

☆ ところで、

文語訳は、8章14節をこう訳している。

「弟子たちパンを携(たずさ)ふることを忘れ、

舟には唯一(ただひと)つの他パンなかりき」。

イエスさまが「パンなら1つある」と言われたのは、ご自分のこと。

本当のパンが1つ、ここにある、ということ。

そのことに、短い舟でのこの道中で、気がつかないといけない。

イエスさまは言われる。

本当のパンが、食べれば絶対に、

“満腹”するパンが、

1つある、

そのパンは、この私の舟に、この私と一緒に乗っていてくださる、

ということに気がつかないといけない、と。

そのように、

イエスさまは、弟子たちにも、私にも、今日、語りかけてくださる。

(2017/02/05小礼拝での説教から)

余 yoteki 滴 2017年2月5日

食事が終わると

(ヨハネによる福音書21章15節)

☆ ペトロは、湖畔での食事が終わると、イエスと共に歩き始める。

イエスが、ぺトロの少し前を歩まれる。イエスの後を、ペトロは従って行く。

彼らは、主従の序に従って、ペトロの気持ちに即して言えば、この時、教える者と、教えを請う者との関係で歩み始めている。

そう、イエスとペトロは歩み出す。ペトロは、師イエスに従う者として、同じ湖畔で召し出されたあの時と同じ状況だ、と思い出しながら。

☆ しかし、キリストはそうではない。

イエスは、ペトロを弟子から使徒へとされるために、歩み出した“この時”、をお用いになる。

ややさがってつき従うペトロに、イエスは、『この人たち以上にわたしを愛しているか』と問われる。ペトロは、弟子としての心得を述べる。『はい、主よ。…あなたがご存知です』。キリストは3度、ペトロに問われ、ペトロは、3度キリストに応える。

☆ もっとも、ヨハネによる福音書21章15節は、「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」と記すばかりで、彼らが、湖畔を歩み始めている、とはどこにも記されていない。

そのことは、21章20節になってはじめてあきらかになる。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」。

キリストに従って歩み出していたペトロは、自分の後に、同じようにイエスに従って歩み出している者がいるのだと知る。

☆ 湖畔での、再度の召命は、“見えないキリスト”について行くということ。

3度、問われるのは、その生き方が、一時の熱情や、人の側の、弟子の側の、私たちの側の、感情や思いが問われているのではない、ということを示す。私たちは、弟子は、「はい、主よ。…あなたがご存知です」と応えるが、でもその前に、ただ、主の助けだけが、信仰的確信を生き続けることを得させるのだ、とヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、深く理解している。

入信の時の、なみなみならない熱意など、またたくまにさめるのだから。

☆ ヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、3度、問いかけられるキリストの前から脱落して行く信仰の友の多いことを知っている。むしろ、はっきり言えば、大半の仲間は、離脱して行くし、現に亡散している。

なぜなら、イエスをキリストと告白して行く生活は、とても生きにくいものだから。

ヨハネの共同体が、ユダヤ教社会の中にあるのか、それとも、多神教的異教社会の中に存在しているのか、私は知らない。しかし、どちらであったとしても、イエスをキリストであると言い表して行く歩みは、生きにくさを通り越して、生きて行くことそのものを阻害しかねない。そういう社会の現実の中で、告白に生きようとする、それがヨハネの共同体。絶対的な少数者を生ききろうとする告白に生きる群れ。

☆ それだから、17節には「悲しくなった」という言葉が挟まれる。

「イエスが三度も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。

ここでの“悲しみ”は、キリストが3度も「愛しているか」と3度も問われたことが“悲しい”と言っているのではない。

むしろ、3度、問われることに耐えきれずに、この世へと脱落して行く、そういう“友”の多いことへの嘆き。時代の只中で、キリスト者を生き、信仰を生きる、ということが必然的に生み出す“悲しみ”の先取り。

 

だから、弟子から使徒へと、“見えるイエス”の後に従っていた者から、“見えないキリスト”に押し出されて福音の使者とされて行く者は、皆、この“悲しみ”を覚えて、前に進み行かなければならないのだ、とペトロの使徒としての召命の出来事を通して、この福音書を残した人々は、語りかける。私たちに。今日も。この時代も。

(2017 / 01 / 22 婦人会での聖研から)

【余滴】(2016年10月9日【三位一体後第20主日】の説教から)

「九人は何処(いずこ)に在(あ)るか」

列王記(下)5章15-19節

ルカによる福音書17章11-19節

 

☆ 今朝、私たちは二つの癒しの物語に出会いました。

一つは、列王記(下)5章にあるナアマンの物語です。

ナアマンは「重い皮膚病」を患っていて、エリシャのところに行くのです。するとエリシャは、ナアマンに、川で、七度身を清めなさい、と言うのです。それを聞いたナアマンは、激怒するのです。それでもナアマンは言われた通りにするわけです。

そうすると彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになった、というのです。今日は、その先からが読まれました。

 

☆ ナアマンは、エリシャのところに戻り、「らば二頭に負わせることができるほどの土」を求めるのです。礼拝をするためのようです。

ナアマンが受け取って行く「土」は、彼の祈りの場なのかもしれません。

らば二頭分の土は、そこに小さなイスラエルを出現させる、ということなのでしょう。

 

☆ 祈りの場を、どのように生活の中で持つか、ということを、このナアマンの物語りは私たちに教えているのではないかと思うのです。

御言葉を開いて祈るための「椅子」というものがあったら、生活は本当に豊かになる、と言ったらいいでしょうか。御言葉を開いて祈るためだけの、ちいさな「机」というものがあれば、私たちは神の前に祈る、そういう生活ができる、とナアマンの物語りは、私たちに教えてくれるのだと思うのです。

 

☆ さて、「九人は何処に在るか」という説教題をつけました。

(「世界共通日課表」に従っていますので)2010年には、この箇所に「一人」という説教題をつけていました。それは、イエスさまのところに帰ってくるのは「一人」だからです。

今回は、“9人”です。

私は、「九人は何処に在るか」とキリストが問われる時、叱責されている、という気がずっとしてきたのです。そして、たぶん私は“9人”の中に在る。たぶん帰りませんね。

 

☆ 皆さん、医者に行きます。お薬をもらいます。そして、治ったからと言って医者に行きません。ドクターのところに「先生、治りました」と、報告には、たぶん行きません。そういうものです。治ったら行きません。ですから私も、“9人”の中にいます。イエスさまのもとには帰りません。

でも、イエスさまはこの“9人”を叱っているとは思えなくなって来ている。

むしろイエスさまは、この“9人”を心配しておられる、と思う。帰って来ないのが当たり前だと、イエスさまも思っておられるのではないか、と思うのです。

 

☆ ナアマンは、戻って来ました。「随員全員を連れて」と書かれています。ナアマンは、これからの自分の祈りの生活というものをどのようにしていったらいいのか、神の人エリシャと相談する、という目的があった。

ナアマンがエリシャと話したのは、清くされたことへの感謝とともに、将来のことです。これから自分は、“清くされたもの”としてどう生きるのか、というのがナアマンのテーマです。帰って来る、というのはそういう事である、と聖書は伝えている、と思うのです。

 

☆ 10人は、サマリアとガリラヤの間を通ってエルサレムに上って行かれる途中のイエスさまと出会います。

ここは、ガリラヤなのか、サマリアなのか判らない境界線上です。サマリアだとも言えるし、ガリラヤだとも言える、曖昧な場所です。国境といったらいいでしょうか。「境目」なわけです。

しかもイエスさまは「ある村」に入って行って、通り抜けて行こうとされる。イエスさまはただひたすら、まっすぐにエルサレムに向かって歩まれます。

そうすると、10人は、イエスさまに向かって「声を張り上げ」るのです。ただこの箇所の原語は「大声をあげる」とは書かれてはいない。むしろ声を揃えて、「先生、私たちを憐れんでください」というのです。

 

☆ イエスさまは、今、二つの視線を浴びています。

一つはここに出て来ている視線です。イエスさまは、10人が声を揃えて、「あわれんでください」という声を聞いています。その視線を感じておられます。そしてそれは、村の外からイエスさまに向けられている視線です。熱い視線と言ってもよいかも知れません

それに対して、たぶんの村の入り口に立っている人たちは、これがガリラヤの村なのかサマリアの村なのか判りませんが、歓迎しない目線で見つめていると思うのです。冷たい視線が、ルカは記しませんが、一方にある、ということです。そして彼らも、キリストには近づいてきません。

 

☆ その中で、イエスさまは、この「重い皮膚病」の人たち、共同体から疎外されている人たちに向かって、こう言われるのです。

「見て」とルカは記しますが、イエスさまは彼らを「見て」、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われるのです。ギリシア語は、「行け」、「示せ」、「自らを」、「祭司に」という順で書かれている。ですから、永井直治訳は、「往きて己自らを祭司に見(あら)はせ」、です。

イエスさまの御言葉と出会う、という事は、自らをイエスさまに現す、という事なのだ、と言ってよいと思う。

 

☆ 「重い皮膚病」だったと書かれています。

彼らは自分自身を見るのが一番嫌な時にイエスさまに出会うのです。

私も、鏡を見てて、ああ、今日も悪いな、と思うわけですよ。でもそういう自分と向き合え、とイエスさまは言うのです。自分の見たくないところを見ない限り、イエスさまの言葉は届かない、と。

イエスさまは、祭司のもとに行け、と言われますが、それは、神の前に、と言い換えてもよいと思うのです。己自らを神の前に、と言われている。

私は、神の前にほんの少しの隠し事もできない、ということに気づかなければならない。そのように、「重い皮膚病」の10人に言われるイエスさまの言葉が、今日、私に、響かなければならない。

 

☆ 「彼らはそこに行く途中で清くされた」。彼らは、まだ祭司のところで「己自らを見(あら)は」していません。

しかし、私たちは、私が包み隠さず、私の全てを神の前にあらわす、という決意を、キリストの言葉を聞いてするのであれば、「行く途中」で清くされるのだ、ということに出会うのです。

翻って言えば、私が一向に良くならないのは、そういう決意に至らないからです。決意は行動を促す、とルカは言うのです。それが御言葉の働きだと言うのです。御言葉の前に立つものは、御言葉によって生き方が変えられて行く、というのです。

祭司に会いに行くためには、彼らが追い出されて来た、彼らを疎外した、彼らを迫害した村落共同体の中にもどらなければいけない、ということを含んでいるからです。ですから、彼らは白眼視のただ中に入って行く、ということです。

 

☆ 矢内原忠雄はこの箇所で、彼らは“食い逃げした”と書きます。

でも私たちの信仰も、たいてい“食い逃げ”です。聞いて帰って忘れるのですから。

朝、読んだ御言葉を、夜、覚えていないのですから。私たちは、いつでも御言葉の前に“食い逃げ”なのです。

そして、イエスさまは、この“9人”を責めてはおられない。“食い逃げ”でもよいから、あなたは私の前に来なさい、あなたは、私の言葉で変えられなさい。あなたは、私の言葉を聞いて、次の一歩を、今来た道ではない方向に、歩み出しなさい、と今朝も、私に、語りかけておられるのです。

この“9人”でしかない私は、「9人はどうした」と言ってくださるイエスさまに、深い慰めを感じてよいのだと思うのです。キリストが、私の消息を問うていてくださる、それが、キリストの言葉と出会う、という事だと思うからです。

 

☆ イエスさまは、戻って来た、このサマリアの人にこう言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

「起きろ」と言われるのです。イエスさまは、新しい命への「よみがえりなさい」と言われるのです。そして「行きなさい」と言われる。

 

☆ 彼はきっと、行く場所がなかったのです。そして、“9人”には帰るべき場所があったのですよ。

ナアマンは戻ってきましたが帰る場所がありました。そして、帰るべき場所を、らば二頭分の土で小さな聖所にすることで、彼は帰るべき場所をつくることができました。でもこの「一人」には帰る場所がなかった。

そして、その人に、イエスさまは言われるのです。「帰りなさい」と。

御言葉によって変えられた者は、御言葉によって新しい命にいきるべく「よみがえらされた」者は、新しい場所に、信仰によって歩み出して行きなさい、と言われるのです。

 

☆ そして、彼には一緒にいやされた“9人”の魂への責任がある。信仰共同体というのは、そういうものだ、とルカによる福音書は思っている。

私たちは、10人のうち、たったひとり残って来た、「一人」なのです。私たちのこの礼拝の外に、帰って来ない“9人”がいるのです。

ですから、私たちは、教会は、“9人”の魂のために祈り続けなければいけないのです。

残り“9人”の安否を、主が問うておられるのですから、私たちは、「残りの者」として集められた教会の役割、責任として、ここにいる一人ひとりが、ここにいない多くの信仰の友のために祈り続けなければならない。そういう祈りの群れへと主によって深めていただかなければいけないのです。