【余 yoteki 滴】

「旅を急いだ」( 使徒言行録 20 : 16 )

パウロは、
「五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急い」でいた(使徒20 : 16)。
彼は、
「エフェソには寄らない」、と決める。
「アジア州で時を費やさないように」、と決める。
パウロは、
ルートを検討し、最短の旅程を、最善の航路を選ぶ。
でも、
パウロの「旅」は、
ミレトスの港で足止めとなる。
舟は、彼の思う通りには出航しない。
彼は、
ずっと決めていた。
五旬祭にはエルサレムで神殿に行きたい、と。
あの祭りの時に神殿で祈りたい、と。

でも、
舟はまだ出ない。

急いている気持ちを、
パウロが鎮めて、
沈黙して、
為すべきことを神に尋ねない限り、
パウロの「旅」は進まない。

パウロは、
鎮まって神の前に祈る自分を取り戻す。
否、
主によって、取り戻させていただく。
パウロは坐す。
神が決めたもう「旅」の時が、
人が思い定めた時刻表に先立つ、ということを
思惟するために、
ミレトスで。

【 些事 saji-bibou 備忘 】

「 ネコ 」

先日、
園庭に陥没箇所が発生した時のこと。
これから重機を入れて本格的に掘削を開始する前に、職人さんたちは、
牧師に、
「祈ってくれ」と、言う。
ある意味しごく当然のことで、
特に、土地に重機を入れる業者さんは、“信心”深い。
それというのも、この列島が属する東アジア漢字文化圏の民俗では、
土地は、カミに属するものであって、ヒトに帰するものではないから。
しかも、これから削(ほ)るのは、教会の土地、“境内地”なのだから。
そして、
そういう“神事”にきちんと時間をとれる職人さんは、
私の経験からいうと、仕事が丁寧で迅速。

聖卓の前で、祈りの時を持った。

さて、これからどうするか、
と検討していた時のこと。

当然のことだけれども、
掘れば、埋め戻さなければならない。
そうなると、
掘削して地層を撹拌してしまうわけだから、
掘ったところだけ、簡単な言い方をすれば、周囲と固さが違ってしまう。
そこで、
「転圧機」という機械で圧力をかけて固めるのだけれども、
人工的に圧力をかけても、かけきれるものではないから、
埋め戻すと、どうしても土が余る。

「余るでしょうね」、という話しになり、
私は、
「まあ、ネコ一杯ぐらいだったら牧師館の裏に投棄でいいですよ」
と言った。
そうしたら、職人さんたちが、
“あれっ”
と固まってしまった。
おっと、素人考えだったか。
「ネコ一杯ぐらいじゃあ済みませんか?」と、重ねて尋ねると、
「いや、そこじゃなくて」と、彼ら。
普通、素人さんは「ネコ」は言わない、と言われてしまった。
ああ、そっちか。
「ネコ」とは一輪車のこと。発掘の現場でも、一輪車は「ネコ」と呼ぶ。
そのことを説明しようかなと思っていると、
目の前を、
顔見知りの黒と白のブチの猫が、
悠然と通り過ぎて行った。

余 yoteki 滴(8月16日)

【「終戦記念日」を覚えて – 祈り – 】
8月15日。
1945年8月15日から70年。
私たちは、この島国の自然の美しさを愛するがゆえに、
二度と焦土と化す戦争に突き進む国としないことを祈ってきました。
そして今、
主が創られた被造世界にある全ての生命(いのち)と共に、
この敗戦を覚える日を、真に「終戦」の日としてください、
と強く祈ることを得させてください。
この世の中の、
あらゆる戦争、紛争、武力衝突、軍事介入の「終わりの日」と、
主よ、あなたがしてください。
私たちが、
あなたの御旨を深く受けとめ、
地域、国家、民族というこの世の枠にとらわれることなく、
広く、全世界に主の御名による平和が実現することを、
祈り続けられるようにしてください。
私たちを、御旨に聴きつつ歩む群れとして整えてくださいますように。

余 yoteki 滴 (8月9日)

【長崎の日を覚えて – 祈り – 】
この朝(あした)、70年前の長崎への原爆の投下を覚えて祈ります。
世界の平和と、核廃絶への祈りを深める教会の祈りを、かたく確かなものにしてください。
私たちの祈りが、世界中の平和を求める祈りに連なり、キリストにある一つの祈りになるように、主がしてください。
そして、御旨に聴きつつ歩む群れとして整えてくださいますように。

余 yoteki 滴(4月5日)

復活節黙想
「思い出しました」
(マタイによる福音書 27 章 63 節)

私たちは驚く。

十字架の出来事があって、最初にキリストの言 ( ことば ) を思い出し、その言 ( ことば ) に従って行動するのは、敵対してきた者たちだから。
彼らはピラトに言う。「人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました」(マタイ27章63節)。キリストの言 ( ことば ) を、もっともよく思いめぐらし、吟味し、的確に意味を把握しているのは、「祭司長たちとファリサイ派」の人々(62節)。

主の十字架という出来事は、人の思いを越えた結果を生じさせる。
十字架のもとで、「本当にこの人は神の子だった」と、最初に、宣言するのはローマ兵(異邦人)の百人隊長(ルカによる福音書23章44節)。そして、キリストを十字架につけた者たちが、「思い出しました」と語る。キリストの言 ( ことば ) は、真理の言葉であるが故に、反対する者、批判をする者をも、信じる者と等しく動かす。
そのことに私たちは、はっきりと驚かなければならない。

私たちは、不信仰に傾く僅かな信仰の者で、無関心な者、冷笑する者よりも遥かに遅く、御言葉を思い起こす者。しかし、主を信じ、御言葉を思い起こし、御言葉を生きる者とされて、この年度の歩みを、十字架の主のもとにあって、始めて行きたい。
(2013/3/31週報改)

余 yoteki 滴(3月29日)

四旬節黙想

「小さなパン菓子」(列王記上17章13節)

図案は、AD6世紀頃の、パンのための型(スタンプ)。ビザンチン時代の北シリアから出土した(『海のシルクロード「古代シリア文明展」』の図録から)。大きさは約6.5cm。中央に木を描き、左右に有角の動物を配し、周囲には花をつけた樹木と鳥とを描いている。
パンに型押しする、というのであれば、そのパンは「種入れぬパン」ということになろう。

「除酵祭」の規定では、「あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる」(民数記28章17節)とある。
民数記6章の「ナジル人」の規定の中にも出てくる。「ナジル人」が満願の献げ物をする時には、雄羊、雌羊と共に、「酵母を使わずに、オリーブ油を混ぜて焼いた上等の小麦粉の輪型のパンと、オリーブ油を塗った、酵母を入れない薄焼きパンとを入れた籠を」献げるとある(6章13節以下)。

さらに、王妃イゼベルとの殺戮戦に巻き込まれたエリヤには、「焼き石で焼いたパン菓子」が用意される(列王記上19章)。ホレブの山への逃避行の最中、えにしだの木の下で眠ってしまうエリヤのもとに、御使いが来て、「起きて食べよ」と言う。そして、手早く焼かれた「パン菓子」の香ばしさが、エリヤを力づける。

時間は前後するが、飢饉と旱魃の時に、エリヤはサレプタの女主人の元に神さまによって預けられる。その際エリヤが求めるのも、焼いた「小さいパン菓子」(列王記上17:13)。この「小さいパン菓子」は、わずかにつぼの中に残った「一握りの小麦粉」で作られる(17:12)。

さて,上掲のパンのための型(スタンプ)も、やはり小さな「パン菓子」を作るための型(スタンプ)だったのであろう。それは、町の駄菓子屋の店先で、子供たちを喜ばす「パン菓子」だったのかも知れない。或いは、町一番の老舗の看板商品のための型(スタンプ)だったのかも知れない。いずれにしても、この小さな、パンのための型(スタンプ)は、サレプタのあの家で、「彼女の家族は久しく食べた」(列王記17:15〈口語訳〉)と記されている出来事の、御使いに「起きて食べよ」と言われた出来事の、文化的余韻の中に深くある。

パンは、与えられるものであると同時に差し出すもの。
エリヤに御使いが、そしてサレプタの女主人が、与えるものであるように。
そしてそれは、「ナジル人」の誓願が成就したことを寿ぐ者が、主の前に差し出すもの。この幾層にも、襞深く焼き込められた思い出と共に、「小さいパン菓子」は、その型(スタンプ)は、ある。
私たちが受け継いできた信仰のように。
(2012/3/25週報改)

余 yoteki 滴(3月22日)

四旬節黙想

「わたしの後ろに従いたい者は、」
( マルコによる福音書8:34 )

私が固執するものは、何か。“そんなことに?”、と人が言うような“細かい”、或いは、“意味のない”ことに私はこだわる。
正確に言うのであれば、私は、私が、何にこだわっているのかを知らない。そして、周囲からは、“おや、あんなことに固着するのだねぇ”、と思われていたりする。
私は執着する。キリストの目からは実に不要な、無意味な事柄に対して。
そしてキリストは、私をも叱ってくださる。あなたは、「人間のことを思っている」(同33節)と。

キリストは、主を戒めるペトロに、「わが後に退け」 (文語訳。新共同訳は「引き下がれ」) と言われるように、“私の後ろに従って来なさい”、と私にも声をかけてくださる。“人間的なこだわりを捨てて、そういう自分をかかえたまま、
私の後ろに従って来なさい”、と。十字架をしっかと見据えたまま、主は、私の傍らを通りかかる時に、そう、声をかけてくださる。さて私は、声をかけてくださる主にどうお応えすればいいのか。
(2014/3/30週報改)

余 yoteki 滴(3月15日)

四旬節黙想
「救いは主のもとから来る」(詩37篇39節)

37篇を残した詩人が、詩編の詞書にあるようにダビデなのかそうでないのかは、もはや、私たちには判然とはしない。詩人が誰であるかはわからないとしても、この詩の作者は、一つの確信に立っている。

それは、必ず主は「備えてくださる」(23節)という確信。神の御護りと支えとに対する揺るがない信頼。どうして詩人は、それほどまでに神を信頼できるのだろうか。

むしろ神は、私が願う時に、私の助けになってくださらない、ということが多いというのが、私たちの経験なのではないだろうか。
しかし、詩人は、神は「とこしえに見守り」(28節)たもう方だと言う。
不条理だとしか思えないことの連続の中で、神の加護などないのではないか、と思えるような経験の積み重ねの中で、私は、神を見放してしまう。神は決して私を見捨てないのに。
しかし、詩人は、「救いは主のもとから来る」と告白することを知っている。そのことへの信頼を深めて行きたい。
(2013/3/24週報改)

余 yoteki 滴(3月8日)

四旬節黙想
「ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった」
(創世記44章12節)

ベニヤミンの穀物の袋を開けると、「銀の杯」が入っている。
「銀の杯」は、ヨセフ自身。

ヨセフは執事に言わせる。「あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか」(創世記44章5節)。
「銀の杯」は、ヨセフの聖と俗の両界を交差させる道具。ヨセフの「執政」としての執務の傍らにあり、ヨセフが「夢見る人」であるとき、ヨセフと神との世界の傍らにある。
ヨセフは、その「銀の杯」を、同母弟のベニヤミンに、そっと預ける。

ヨセフに奴隷として引き渡されたベニヤミンを、兄たちが買い取ることでしか、ヨセフが兄たちとの間の失われた信頼を回復できない。ヨセフは、代価を払って購われた者だ。そのヨセフが、弟ベニヤミンの買い戻しを、購いを、兄たちに持ちかける。ベニヤミンと一緒にベニヤミンの同母兄であるヨセフも父が買い戻すことを。つまり、ヨセフの正当な権利の回復を。

しかし、事はヨセフが企図したようには進まない。
「夢見る人」であるヨセフは、人の計画、人の思いに、神が明瞭なる否をもって介入されることを良く知っている。
ヨセフは、自分で立てた計画のその最後の、詰めの時に、歯を食いしばって生きてきた人、理性と努力の人であることをやめる時が来たことを知る。

彼は、「もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ」(創世記45章1節)。
ヨセフは、ここまでをエジプト語で語る。後は、兄たちとの会話は、彼の母語になる。
冷静な、怜悧な吏員としてのヨセフではなく、「泣く者」としてのヨセフがそこにいる。

神の介在は、ヨセフという一人の人をありままのその人へと連れ帰る。組織の人を家族の人にし、理知の人を感性の人にする。エジプトの執政でありながら、ヨセフは小さな部族ヘブライ人の長となる。
「エジプト語」を語る“執政ヨセフ”は、「ヘブライ語」を用いる“神と共にいる人ヨセフ”に変えられる。
そうヨセフは、関係を取り戻す祝福の器に、主にある器へと変えられるのを私たちは見る。
(2012 / 2 / 26 週報改)

余 yoteki 滴(2月22日)

四旬節黙想
「境内で子供たちまで叫んで」
( マタイによる福音書 21 章 15 節 )

マタイによる福音書は、「それから、イエスは神殿の境内に入り」(21章12節)と記す。
主は、神が祝福し続けておられる都に来られる。
そして、神殿の「境内」へと歩み行かれる。
そして、そこでの出来事を福音書は、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによって来た」(14節)と伝える。
さらに、「境内で子供たちまで叫んで」(15節)とも言葉を重ねる。

今や、神殿の「境内」は、そもそも入ることがゆるされなかった人々で、そして、数に入らない子供たちで、満ちているのだ、と福音書は語る。
「律法」がイスラエル共同体の外に置く、「目の見えない人や足の不自由な人」、年齢的に「一人前」と数えられない「子供たち」が、イエスをメシアであると、「ダビデの子」であると、宣言する。

ご降誕の時に、東方の占星術の学者たちが(つまり異邦人が)、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2章2節)と言い、「民の祭司長たちや律法学者たち」(2章4節)に先んじてキリストを礼拝するように、今また、「目の見えない人や足の不自由な人」、「子供たち」が、「祭司長たちや、律法学者たち」(15節)よりも早く、明瞭に、端的に、イエスをメシアであると告白する。「ダビデの子にホサナ」(21章15節)と。
今日、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ「子供たち」は、その無垢さ、純真さのゆえに辺地から神殿の「境内」という中心へと迎え入れられる。
そう、ご降誕に続く「幼な子殉教者」の出来事に示されている「子供たち」と共に。

神殿の「境内」において、神の御前において、権威と周辺はその立地を転じる。それが、「主が来られる」、ということ。虐げられ、闇に追いやられ、迫害され、殉教させられた者が、「ホサナ」と叫び、喜びの内に「神殿」でメシアに出会う。律法学者たちが「腹を立て」(21章15節)る中、十字架の贖いの接近の只中で。イエスの祝福の内に。
(2013年2月24日週報改)