余 yoteki 滴(4月5日)

復活節黙想
「思い出しました」
(マタイによる福音書 27 章 63 節)

私たちは驚く。

十字架の出来事があって、最初にキリストの言 ( ことば ) を思い出し、その言 ( ことば ) に従って行動するのは、敵対してきた者たちだから。
彼らはピラトに言う。「人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました」(マタイ27章63節)。キリストの言 ( ことば ) を、もっともよく思いめぐらし、吟味し、的確に意味を把握しているのは、「祭司長たちとファリサイ派」の人々(62節)。

主の十字架という出来事は、人の思いを越えた結果を生じさせる。
十字架のもとで、「本当にこの人は神の子だった」と、最初に、宣言するのはローマ兵(異邦人)の百人隊長(ルカによる福音書23章44節)。そして、キリストを十字架につけた者たちが、「思い出しました」と語る。キリストの言 ( ことば ) は、真理の言葉であるが故に、反対する者、批判をする者をも、信じる者と等しく動かす。
そのことに私たちは、はっきりと驚かなければならない。

私たちは、不信仰に傾く僅かな信仰の者で、無関心な者、冷笑する者よりも遥かに遅く、御言葉を思い起こす者。しかし、主を信じ、御言葉を思い起こし、御言葉を生きる者とされて、この年度の歩みを、十字架の主のもとにあって、始めて行きたい。
(2013/3/31週報改)

余 yoteki 滴(3月29日)

四旬節黙想

「小さなパン菓子」(列王記上17章13節)

図案は、AD6世紀頃の、パンのための型(スタンプ)。ビザンチン時代の北シリアから出土した(『海のシルクロード「古代シリア文明展」』の図録から)。大きさは約6.5cm。中央に木を描き、左右に有角の動物を配し、周囲には花をつけた樹木と鳥とを描いている。
パンに型押しする、というのであれば、そのパンは「種入れぬパン」ということになろう。

「除酵祭」の規定では、「あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる」(民数記28章17節)とある。
民数記6章の「ナジル人」の規定の中にも出てくる。「ナジル人」が満願の献げ物をする時には、雄羊、雌羊と共に、「酵母を使わずに、オリーブ油を混ぜて焼いた上等の小麦粉の輪型のパンと、オリーブ油を塗った、酵母を入れない薄焼きパンとを入れた籠を」献げるとある(6章13節以下)。

さらに、王妃イゼベルとの殺戮戦に巻き込まれたエリヤには、「焼き石で焼いたパン菓子」が用意される(列王記上19章)。ホレブの山への逃避行の最中、えにしだの木の下で眠ってしまうエリヤのもとに、御使いが来て、「起きて食べよ」と言う。そして、手早く焼かれた「パン菓子」の香ばしさが、エリヤを力づける。

時間は前後するが、飢饉と旱魃の時に、エリヤはサレプタの女主人の元に神さまによって預けられる。その際エリヤが求めるのも、焼いた「小さいパン菓子」(列王記上17:13)。この「小さいパン菓子」は、わずかにつぼの中に残った「一握りの小麦粉」で作られる(17:12)。

さて,上掲のパンのための型(スタンプ)も、やはり小さな「パン菓子」を作るための型(スタンプ)だったのであろう。それは、町の駄菓子屋の店先で、子供たちを喜ばす「パン菓子」だったのかも知れない。或いは、町一番の老舗の看板商品のための型(スタンプ)だったのかも知れない。いずれにしても、この小さな、パンのための型(スタンプ)は、サレプタのあの家で、「彼女の家族は久しく食べた」(列王記17:15〈口語訳〉)と記されている出来事の、御使いに「起きて食べよ」と言われた出来事の、文化的余韻の中に深くある。

パンは、与えられるものであると同時に差し出すもの。
エリヤに御使いが、そしてサレプタの女主人が、与えるものであるように。
そしてそれは、「ナジル人」の誓願が成就したことを寿ぐ者が、主の前に差し出すもの。この幾層にも、襞深く焼き込められた思い出と共に、「小さいパン菓子」は、その型(スタンプ)は、ある。
私たちが受け継いできた信仰のように。
(2012/3/25週報改)

余 yoteki 滴(3月22日)

四旬節黙想

「わたしの後ろに従いたい者は、」
( マルコによる福音書8:34 )

私が固執するものは、何か。“そんなことに?”、と人が言うような“細かい”、或いは、“意味のない”ことに私はこだわる。
正確に言うのであれば、私は、私が、何にこだわっているのかを知らない。そして、周囲からは、“おや、あんなことに固着するのだねぇ”、と思われていたりする。
私は執着する。キリストの目からは実に不要な、無意味な事柄に対して。
そしてキリストは、私をも叱ってくださる。あなたは、「人間のことを思っている」(同33節)と。

キリストは、主を戒めるペトロに、「わが後に退け」 (文語訳。新共同訳は「引き下がれ」) と言われるように、“私の後ろに従って来なさい”、と私にも声をかけてくださる。“人間的なこだわりを捨てて、そういう自分をかかえたまま、
私の後ろに従って来なさい”、と。十字架をしっかと見据えたまま、主は、私の傍らを通りかかる時に、そう、声をかけてくださる。さて私は、声をかけてくださる主にどうお応えすればいいのか。
(2014/3/30週報改)

余 yoteki 滴(3月15日)

四旬節黙想
「救いは主のもとから来る」(詩37篇39節)

37篇を残した詩人が、詩編の詞書にあるようにダビデなのかそうでないのかは、もはや、私たちには判然とはしない。詩人が誰であるかはわからないとしても、この詩の作者は、一つの確信に立っている。

それは、必ず主は「備えてくださる」(23節)という確信。神の御護りと支えとに対する揺るがない信頼。どうして詩人は、それほどまでに神を信頼できるのだろうか。

むしろ神は、私が願う時に、私の助けになってくださらない、ということが多いというのが、私たちの経験なのではないだろうか。
しかし、詩人は、神は「とこしえに見守り」(28節)たもう方だと言う。
不条理だとしか思えないことの連続の中で、神の加護などないのではないか、と思えるような経験の積み重ねの中で、私は、神を見放してしまう。神は決して私を見捨てないのに。
しかし、詩人は、「救いは主のもとから来る」と告白することを知っている。そのことへの信頼を深めて行きたい。
(2013/3/24週報改)

余 yoteki 滴(3月8日)

四旬節黙想
「ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった」
(創世記44章12節)

ベニヤミンの穀物の袋を開けると、「銀の杯」が入っている。
「銀の杯」は、ヨセフ自身。

ヨセフは執事に言わせる。「あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか」(創世記44章5節)。
「銀の杯」は、ヨセフの聖と俗の両界を交差させる道具。ヨセフの「執政」としての執務の傍らにあり、ヨセフが「夢見る人」であるとき、ヨセフと神との世界の傍らにある。
ヨセフは、その「銀の杯」を、同母弟のベニヤミンに、そっと預ける。

ヨセフに奴隷として引き渡されたベニヤミンを、兄たちが買い取ることでしか、ヨセフが兄たちとの間の失われた信頼を回復できない。ヨセフは、代価を払って購われた者だ。そのヨセフが、弟ベニヤミンの買い戻しを、購いを、兄たちに持ちかける。ベニヤミンと一緒にベニヤミンの同母兄であるヨセフも父が買い戻すことを。つまり、ヨセフの正当な権利の回復を。

しかし、事はヨセフが企図したようには進まない。
「夢見る人」であるヨセフは、人の計画、人の思いに、神が明瞭なる否をもって介入されることを良く知っている。
ヨセフは、自分で立てた計画のその最後の、詰めの時に、歯を食いしばって生きてきた人、理性と努力の人であることをやめる時が来たことを知る。

彼は、「もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ」(創世記45章1節)。
ヨセフは、ここまでをエジプト語で語る。後は、兄たちとの会話は、彼の母語になる。
冷静な、怜悧な吏員としてのヨセフではなく、「泣く者」としてのヨセフがそこにいる。

神の介在は、ヨセフという一人の人をありままのその人へと連れ帰る。組織の人を家族の人にし、理知の人を感性の人にする。エジプトの執政でありながら、ヨセフは小さな部族ヘブライ人の長となる。
「エジプト語」を語る“執政ヨセフ”は、「ヘブライ語」を用いる“神と共にいる人ヨセフ”に変えられる。
そうヨセフは、関係を取り戻す祝福の器に、主にある器へと変えられるのを私たちは見る。
(2012 / 2 / 26 週報改)

余 yoteki 滴(2月22日)

四旬節黙想
「境内で子供たちまで叫んで」
( マタイによる福音書 21 章 15 節 )

マタイによる福音書は、「それから、イエスは神殿の境内に入り」(21章12節)と記す。
主は、神が祝福し続けておられる都に来られる。
そして、神殿の「境内」へと歩み行かれる。
そして、そこでの出来事を福音書は、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによって来た」(14節)と伝える。
さらに、「境内で子供たちまで叫んで」(15節)とも言葉を重ねる。

今や、神殿の「境内」は、そもそも入ることがゆるされなかった人々で、そして、数に入らない子供たちで、満ちているのだ、と福音書は語る。
「律法」がイスラエル共同体の外に置く、「目の見えない人や足の不自由な人」、年齢的に「一人前」と数えられない「子供たち」が、イエスをメシアであると、「ダビデの子」であると、宣言する。

ご降誕の時に、東方の占星術の学者たちが(つまり異邦人が)、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2章2節)と言い、「民の祭司長たちや律法学者たち」(2章4節)に先んじてキリストを礼拝するように、今また、「目の見えない人や足の不自由な人」、「子供たち」が、「祭司長たちや、律法学者たち」(15節)よりも早く、明瞭に、端的に、イエスをメシアであると告白する。「ダビデの子にホサナ」(21章15節)と。
今日、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ「子供たち」は、その無垢さ、純真さのゆえに辺地から神殿の「境内」という中心へと迎え入れられる。
そう、ご降誕に続く「幼な子殉教者」の出来事に示されている「子供たち」と共に。

神殿の「境内」において、神の御前において、権威と周辺はその立地を転じる。それが、「主が来られる」、ということ。虐げられ、闇に追いやられ、迫害され、殉教させられた者が、「ホサナ」と叫び、喜びの内に「神殿」でメシアに出会う。律法学者たちが「腹を立て」(21章15節)る中、十字架の贖いの接近の只中で。イエスの祝福の内に。
(2013年2月24日週報改)

2015年礼拝予定・行事予定

2015年度礼拝予定

4月10日(日)復活後第2主日(主のあわれみ)礼拝
聖書  使徒言行録 5章 27-42節
説教  「人間に従うよりも、神に」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、358、328、167、42-1

4月3日(日)復活後第1主日(新生)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「見ないのに」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、51、329、363、375、83、86、42-1

3月27日(日)復活祭(イースター)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-18節
説教  「嘆きと悲しみは消え去る」   新井美穂 牧師
讃美歌 14、325、326、332、18、83、86、42-1

3月20日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 22章 26-49節
説教  「わたしの霊を御手に」   服部能幸 牧師
讃美歌 13、188、309、485、92

3月13日(日)四旬節第5主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 8章 1-11節
説教  「この女に石を」   服部能幸 牧師
讃美歌 13、433、300、140、92

3月6日(日)四旬節第4主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 15章 11-32節
説教  「あの弟は死んでいた」  服部能幸 牧師
讃美歌 13、147、163、305、312、83、86、92

2月28日(日)四旬節第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 13章 1-13節
説教  「自分のことに気をつけて」  服部能幸 牧師
讃美歌 13、186、301、571、92

2月21日(日)四旬節第2主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 28-36節
説教  「雲の中に包まれていくので」  服部能幸 牧師
讃美歌 13、285、299、305、92

2月14日(日)四旬節第1主日・創立記念日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章 1-13節
説教  「空腹」  服部能幸 牧師
讃美歌 13、226、449、535、78、83、86、92

2月7日(日)顕現後第5主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 5章 1-11節
説教  「舟が岸にある」  服部能幸 牧師
讃美歌 16、432、355、290、74、83、86、90

1月31日(日)顕現後第4主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章 42-44節
説教  「わたしはそのために遣わされた」  服部能幸 牧師
讃美歌 16、280、291、560、90

1月24日(日)顕現後第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章 16-30節
説教  「人々の間を通り抜けて」  服部能幸 牧師
讃美歌 16、277、289、358、90

1月17日(日)顕現後第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 2章 1-11節
説教  「良いぶどう酒を今まで取って置かれました」  服部能幸 牧師
讃美歌 16、279、286、356、90

1月10日(日)顕現後第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 3章 15-22節
説教  「天から聞こえた」  服部能幸 牧師
讃美歌 16、418、360、278、90

1月3日(日)降誕後第2主日・新春聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 41-52節
説教  「イエスの言葉の意味が」  服部能幸 牧師
讃美歌 266、271、276、Ⅱ篇152、Ⅰ篇204、83、86、90

12月27日(日)降誕後第1主日(歳晩主日)礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 41-52節
説教  「三日の後、見つけた」  服部能幸 牧師
讃美歌 266、259、249、1篇120、90

12月24日(木)19:00~  クリスマス・イブ聖夜燭火礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 1-14節
説教  「喜べ、おそれるな」  新井美穂 牧師

12月20日(日)待降節第4主日・クリスマス聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 1章 39-45節
説教  「『わたしは来ました』」   服部能幸 牧師
讃美歌 235、262、263、267、76、83、86、241

12月13日(日)待降節第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 3章 1-20節
説教  「わたしはその方の履物の」  服部能幸 牧師
讃美歌 235、238、239、Ⅰ篇469、241

12月6日(日)待降節第2主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章 14-30節
説教  「イエスは巻物を巻き」   服部能幸 牧師
讃美歌 235、193、231、Ⅰ篇104、78、83、86、241

11月29日(日)待降節第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 21章 25-36節
説教  「わたしの言葉は決して」  服部能幸 牧師
讃美歌 235、434、363、1編468、241

11月22日(日)終末主日・収穫感謝祭全体礼拝
聖書  マタイによる福音書 20章 1-16節
説教  「自分の分を担う」  新井美穂 牧師
讃美歌 (こどもさんびか)40、103、58、101、24-2、25

11月15日(日)終末前主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 13章 14-31節
説教  「人の子が戸口に近づいている」 服部能幸 牧師
讃美歌 84、356、361、403、354

11月8日(日)終末前々主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 12章 38-44節
説教  「賽銭箱の向かいに座って」  服部能幸 牧師
讃美歌 84、387、305、291、354

11月1日(日)召天者記念日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 12章 28-34節
説教  「神の国から遠くない」  服部能幸 牧師
讃美歌 84、382、483、559、411、83、86、354

10月25日(日)三位一体後第21主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 46-52節
説教  「躍り上がってイエスのところに」  服部能幸 牧師
讃美歌 84、442、446、475、354

10月18日(日)三位一体後第20主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 35-45節
説教  「何を願っているのか、分かっていない」   服部能幸 牧師
讃美歌 84、453、492、512、354

10月11日(日)三位一体後第19主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 17-31節
説教  「欠けているものが一つ」  服部能幸 牧師
讃美歌 84、197、290、314、354

10月4日(日)三位一体後第18主日(世界聖餐日)聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 1-16節
説教  「心が頑固」    服部能幸 牧師
讃美歌 84、183、479、503、77、83、86、354

9月27日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 38-48節
説教  「内に塩」    服部能幸 牧師
讃美歌 84、51、43-3、19、354

9月20日(日)三位一体後第16主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 30-37節
説教  「いちばん先になりたい」  服部能幸 牧師
讃美歌 84、543、536、531、354

9月13日(日)三位一体後第15主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 8章 27節 ~ 9章 2節
説教  「ペトロを叱って」   服部能幸 牧師
讃美歌 353、504、441、433、27

9月6日(日)三位一体後第14主日(振起日)聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 7章 31-37節
説教  「はっきりと話すことができるようになった」  服部能幸 牧師
讃美歌 353、512、540、570、524、93、86、27

8月30日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 7章 1-13節
説教  「洗わない手で食事をする者がいる」 服部能幸 牧師
讃美歌 353、530、506、405、27

8月23日(日)三位一体後第12主日礼拝
聖書 申命記 8章 1-10節
説教  「荒野の40年」  永野 正之 長老
讃美歌 353、475、532、458、27

8月16日(日)三位一体後第11主日礼拝
聖書  コリントの信徒への手紙(1) 12章29節 ー13章13節
説教  「大きな賜物・愛」  溝部 昻 教師
讃美歌 353、204、288、406、27

8月9日(日)三位一体後第10主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 37-51節
説教  「私は、天から降って来た生きたパン」 服部能幸 牧師
讃美歌 353、56、98、129、27

8月2日(日)三位一体後第9主日(平和聖日)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 24-35節
説教  「神のパン」     服部 能幸 牧師
讃美歌 353、446、475、517、74、83、86、27

7月26日(日)三位一体後第8主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 45-52節
説教  「そばを通り過ぎようとされた」 服部能幸 牧師
讃美歌 353、357、363、462、27

7月19日(日)三位一体後第7主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 30-34節
説教  「飼い主のいない羊」  服部能幸 牧師
讃美歌 353、209、281、459、27

7月12日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章  6(b)ー13
説教  「杖一本のほか何も持たずに」  服部能幸 牧師
讃美歌 353、342、454、535、27

7月5日(日)三位一体後第5主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 1-6(a)
説教  「故郷」        服部能幸 牧師
讃美歌 353、207、409、513、72、83、86、27

6月28日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 5章 21-43節
説教  「恐れることはない」   服部能幸 牧師
讃美歌 353、243、356、400、27

6月21日(日)三位一体後第3主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 4章 26-34節
説教  「大きな枝を張る」     服部能幸 牧師
讃美歌 353、432、412、406、27

6月14日(日)花の日こどもの日(三位一体後第2主日)全体礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 43-48節
説教  「悪人にも善人にも」    服部能幸 牧師
讃美歌 470、110(こども)、140(こども)、46
CSの子ども達と一緒に礼拝を守りますので、礼拝の開始時間は9:00からです。

6月7日(日)三位一体後第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 14章 12-26節
説教  「わたしの体」       服部能幸 牧師
讃美歌 353、352、450、479、433、83、86、27

5月31日(日)三位一体主日礼拝
聖書  マルコにおる福音書 28章 16-20節
説教  「父と子と聖霊の名によって」  服部能幸 牧師
讃美歌 353、354、445、467、27

5月24日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  使徒言行録 2章 1-11節
説教  「霊の結ぶ実」    服部能幸 牧師
讃美歌 331、341、343、463、411、83、86、27

5月17日(日)昇天後主日(ききたまえ)礼拝
聖書  マルコによる福音書 16章 14-20節
説教  「なぜ、天を見上げて立っているのか」 服部能幸 牧師
讃美歌 331、337、391、448、25

5月10日(日)復活後第5主日(いのれ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 9-17節
説教  「掟」      服部能幸 牧師
讃美歌 331、472、418、332、25

5月3日(日)復活後第4主日(うたえ)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 1-8節
説教  「実」      服部能幸 牧師
讃美歌 331、69、393、416、74、83、86、25

4月26日(日)復活後第3主日(よろこべ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 7-11節
説教  「心」      服部能幸 牧師
讃美歌 331、200、157、120、25

4月19日(日)復活後第2主日(主のあわれみ)礼拝
聖書  ルカによる福音書 24章 36-49節
説教  「目」      服部能幸 牧師
讃美歌 331、328、358、430、25

4月12日(日)復活後第1主日(新生)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「鍵」      服部能幸 牧師
讃美歌 331、327、536、573、25

4月5日(日)復活祭 主日聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-10節
説教  「主の復活」  服部 能幸 牧師
讃美歌 331、18、326、333、78、83、86、25

余 yoteki 滴  歳晩主日黙想

「起きて、」
(マタイによる福音書2章13節)

ダビデは、その子ソロモンに、
神殿を建てることについての、神の御旨を語る。
そして、
「たって行いなさい。主があなたと共におられるように」
と、祈る(歴代志(上)22章16節、口語訳)。

ことは、神殿建設だから、私を取り巻いている現実などとはほど遠い。
けれども、私も、このダビデの言葉の前に、畏れる。

私は、この1年、“神が共にいてくださる”、と言うことを確信して、
「たって行いなさい」との促しに、
「諾」、と応えることができただろう、と。
私の思いで「立つ」のではなくして、神の御旨を聴いて「立つ」、
そういう鎮まりを、
生き得ただろうか、と。

ヨセフは、主の天使の告げるのに従って、
「起きて」、マリアと御子とを連れてエジプトに出立する。
彼の人生、彼の計画、“わたし”の思いを彼方にして、
神のご計画のみを優先する。
救い主を守って歩む、という生き方に専心する。

そして私は、2014年の歳晩主日に、
「絶えず喚きちらしているわたしたちが
 静かに御前に立ち止まって」(*)、
ただ御声のみを聴くことができるように、と黙して、祈る。

「起きて」、
信仰の深まりへと、心の内を歩み出せるようにと、主に願いつつ。
ただじっと、この、私のため、にも来てくださった御子を、
そっと、
心の内に抱かせていただきつつ。

* * * * * *

(*)引用は、ジョン・キーブル、今橋朗編訳、『光射す途へと』の「降誕後第1主日」の祈り、の一部です。

余 yoteki 滴  (11月23日)

「主よ、あなたを呼び求めます」(詩28:1)

終末節黙想(2)

神は黙して、私に応えてくださらない。
神の沈黙は、絶望。
詩28篇の詩人は、神が沈黙なさるのならば、「わたしは墓に下る者」と同様だ、
とうたう。
神からの応えがない時、私は死者に過ぎない、と詩人は告白する。

神は、私に応えてくださる方か。
そして私は、
神の応えを、はっきりと聴いている、と言える者か。
私も、詩人とともに言う。否、私も「墓に下る者」に過ぎません、と。

私は、私の要求、私の願いばかりを神に祈る者。
神の御声を聴くために、只々、鎮まって、御前に沈黙しようとしない者。

私は、黙せない自分を見つめる。
そして、そのような私に、神は、祈るために膝をかがめることを許される。
その神の恵みの偉大さを思う。
そう、神は、私のために語られる。今も、静かに、御言葉の内に。

余滴(11月9日)

終末節黙想
「主は弱り果てたわたしを救ってくださる」
(詩116篇6節)

人生の結末をどのように迎えるか、私は自分で決めることができない。
このように生きて来たのだから、このように死ねる、と言えるわけではない。

詩116編の詩人は、嘆き祈る自分を知っている。
祈りが、嘆きで終始する時がある。詩人の状況は危機的。
詩人は、「死の綱がわたしにからみつ」くのを見ている( 3 節 )。好転の見込みはない。
しかし、その困窮の窮みにあって、116篇の詩人は、叫ぶ。神に叫ぶ。
御名を呼んで詩人は、「わたしの魂をお救いください」と言うことができることを知っている( 4 節 )。
神の御名を呼び得ることができる、と詩人は知っている。

詩人は、自分のことを、「哀れな人」( 6 節 )と理解している。
この「哀れ」は、「憐れ」ではない。
文語訳では「愚 ( おろ ) か」という訳。神の前に愚直であろうとする者、それが詩人。
「憐れまれる」ことすらなく、排除の対象でしかない「哀れ」さを覚悟をもって生きる、のが詩116篇の詩人。
そのような詩人に対して神は憐れみ深く、「正義を行われる」、必ず( 5 節 )。しかし、詩人の危機は去らない。

そして詩人は、確信している。「わたしたちの神は情け深い」と( 5 節 )。

詩人の神への信頼はなぜ揺るがないのか。
私は、そのことを巡って戸惑う。

私は、全てを主の御旨に託して、困難を、病いを、状況を受け入れることができない。私は、嘆く。
私は、詩人のような神への信頼に立ち得るのか。

詩人は、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に値高い」と宣言する( 15 節 )。
私は、詩人のように「主の聖徒」( 文語訳 ) と言い切り得る歩みを、
「われは活るものの國にてヱホバの前にあゆまん」と言い切る歩みを、
この地上で、生ききることができるのだろうか、と躊躇する。

しかし、自分に踏み留まる私も、この詩人に慰められる。
私の努力では「主の前を歩み続け」ることができないとしても、否、私の努力では歩み得ないのだから、
だから、神は、私に憐れみ深くいてくださるのだと、とのこの詩人の確信によって。