余滴(2008年1月18日)

「主における聖なる神殿」
( エフェソの信徒への手紙 2 : 21 )

今日( 1/17(土)),私たちはこの建物の棟上式を行おうとしています。今日まで,実に多くの方のお仕事が結集して,こういう形になりました。と同時に,私たちは,この仕事の内にキリストの恵みというものが働いている,ということを知るのです。
多くの時間を積み重ねて計画されて来た私たちの思いは,主の恵みを求めてのものでした。“ハコ”を作るということは,その“ハコ”に盛るべき精神というものを,はっきりと意識化しなければならない,ということです。では,キリスト者が住まう所には,どういう形で神の宮が顕されたらいいでしょうか。
聖句が掲げられる,祈りの部屋がある,ということでしょうか。もちろん,それらも大切です。しかし,それ以上に,この家が祈られて建てられた,ということが重要だと思うのです。
約3年にわたって私たちは,牧師館を持たない,という時間を過ごしてきました。これはとても意味のある時間であったと思うのです。
教会の歴史において言うのであれば,初代教会は旅する教会でした。使徒たちも,それに続く福音宣教者たちも,皆,旅をして福音を伝えて行きました。とどまり,祈り,そして再び旅立つ,それが福音宣教者の姿でした。今から150余年前,日本に来た宣教師たちも,旅する福音宣教者でした。もちろん,アメリカなどの海外から日本へという長い旅もありましたし,この日本の中でも,町から町へ,馬に乗り,船に乗り,福音を携えて行ったのです。
ここ伊勢原に福音を伝えたメソヂスト・プロテスタント教会(美普教会)の教役者,宣教師たちも,時に平塚から,東京から,わらじを履いて,馬車に乗ってキリストの恵みを伝えたのです。今年,私たちの教会は創立105周年を迎えます。今,私たちは100有余年前の伊勢原教会草創期の熱情を深く感じたいと思います。
多くの福音宣教者たちによって招かれ,御言葉の真理に聴いた古の,はじまりの時の,熱い思いに深く満たされたいと思います。105年目の始まりに,そのことを祈りましょう。そして福音宣教のために祈りましょう。そのために,ここに,牧師を迎え入れましょう。ここが神の宮であり,神のみが証しされる場所となるように祈り続けましょう。これからの全ての工程の安全と無事を祈りましょう。
やがて私たちの存在も歴史になります。だからこそ、100年前の福音宣教者と共に,正しい信仰をこの地に伝え続けていくために,今日,この時,心を新たにされていきたいと,私たちは願うのです。
(2009年1月17日,牧師館上棟式「奨励」から)

余滴(2008年1月4日)

あけましておめでとうございます
– 神の定めに従う生き方は喜び –
(詩119篇14節)
今年もよろしくお願いいたします。

昔,ファンダメンタルな会派が出している子ども向けのキリスト教説話集みたいな本が我が家にあって,私は時々それを読んでいた。
読む時というのは,たいてい,熱とか腹痛とかから始まって喘息をおこしてしまって,学校を休んでいる,というような午後だった。寒い季節
で,布団から手を出すのがいやで,本ごと掛け布団の中に入っていたりした。
その説話集の中に,お父さんが子どもたちに,「神さまがくださったものでみんなに公平にあるものは何か」と問う,という物語りがあった
( – ような気がするというべきか – )。子どもたちは,あれこれ答える( – お金だとか,食事だとか,勉強だとか – )。でもお父さんは,それらのどれにも「違う」,と言い,そして時計を見せる( – このシーンが,挿絵に描かれているのだが,その時計というのが,ベルが2つついた目覚まし時計だった。もっとも,というような気がするというべきか – )。そして,「24時間だ」と答える。誰に対しても等しく「一日は24時間だ」と答えるのだ。
子供心に,私はこの「平等主義」を,激しく嫌悪した。
その時にはうまく表現することができなかったけれども,「24時間」は同じでも,その内実には,歴然とした差がある,ということは,子供なりに感じていた。その時私が,布団の中で,天井に向かって語れたのは,“仮に「一日24時間が一緒」でも,その積み重ねである人生の長さは人それぞれなんじゃないの,だからこれはおかしいんじゃないかな”,という程度ではあった。
この世の価値で言えば,人生は平等ではない。才能も,体力も,環境も,皆,平等ではない。しかし,キリスト者として生きる,ということ
は,命の長さ,短さではない。ましてや,「24時間」の,( – バブル期の,「24時間働けますか」というC.M.が象徴していたような – )この世的な意味での充実を誇ること,でもない。「イエスは主である」と告白すると言うことは,キリストと共に歩むということに生活を賭して行く,ということ。このありのままの,私の,つまらないことで費やされていくこの「24時間」を,“主が用いてください”,と差し出して行く,ということ,なのだと思う。
翻って,私の「24時間」を思う時,私は,大いにあわてる。主に収穫していただくにふさわしい時間の過ごし方をしてこなかったと,つくづく思うから。それゆえ,「あなたの定めに従う道を喜びとしますように」(詩119:14)と詩篇の詩人が祈るのを聴く時,この2009年,主の道に歩み続けることのゆるされる毎日でありたいと,心から願うのである。

余滴(2008年1月11日)

「見失った一匹を見つけ出すまで」
(ルカによる福音書15:4)

今日( – 1/7,地区婦人研修会 – ),「顕現日の共同の祈り」で次のように祈った。「世界の王として来られた主よ,あなたのため,ヘロデによって殉教するおさなごは幸い。どうか主よ,今この時,なおも殺されるおさなご達を祝福の内においてください」,と。
クリスマスの記事には,「幼子殉教者(おさなごじゅんきょうしゃ)」という物語りを含んでいる。ヘロデは,「博士たちにだまされたと知って」(マタイ2:16),ベツレヘム周辺の「おさなご」たちを一人残らず殺す。「共同の祈り」では,そのこどもたちは幸い,と祈る。「殉教するおさなごは幸い」と。
今日も朝のニュースで,ガザをイスラエル軍が空爆している,ということが報道されていた。今日,ガザで,或いはこの世界で今この時,忘れられ,存在を数えられることもなく,殺されて行くすべてのこどもたちに向かって,私たちは,「殉教するおさなごは幸い」と祈る。それは,クリスマスに「おさなご」として来られ,十字架へと歩まれるキリストは,「おさなご」の一人をも見失うことのない方である,と私たちが信じる信仰の内の祈り。弱く,無力で,この世の「力」の論理から言えば数える必要などない,と見られてしまう「おさなご」である,この私をも,キリストは決して見失わない。キリストの前に,私は,必ず,覚えられている。
今日聴いた,ローズンゲンで与えられた福音は,「見失った羊を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15:4)とのキリストの御言葉を示す。キリストは,必ず,この私をも見出すまで捜してくださる。だから,「世界の王として来られた主よ,平和を求めて,あなたの御手の内を歩む全ての民は幸い」とはっきり言い,祈ることができる。苦しみと悲しみが続く世界にあって,決して,私たちを「見失った」ままにはしておかれないキリストに従う,そのように生きることをこそ,私たちは願う。
(2009.1.7.地区婦人会研修会開会礼拝の奨励より)

*「顕現日の共同の祈り」(部分)
先唱者 世界の王として来られた主よ,あなたのため,ヘロデによって殉教するおさなごは幸い。どうか主よ,今この時,なおも殺されるおさなご達を祝福の内においてください。
一同  福音は,キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。ハレルヤ。(エフェソの信徒への手紙3:5)
先唱者 世界の王として来られた主よ,平和を求めて,あなたの御手の内を歩む全ての民は幸い。
一同  栄光は父と子と聖霊に,はじめのように今も限りなく。アーメン。