余 yoteki 滴  歳晩主日黙想

「起きて、」
(マタイによる福音書2章13節)

ダビデは、その子ソロモンに、
神殿を建てることについての、神の御旨を語る。
そして、
「たって行いなさい。主があなたと共におられるように」
と、祈る(歴代志(上)22章16節、口語訳)。

ことは、神殿建設だから、私を取り巻いている現実などとはほど遠い。
けれども、私も、このダビデの言葉の前に、畏れる。

私は、この1年、“神が共にいてくださる”、と言うことを確信して、
「たって行いなさい」との促しに、
「諾」、と応えることができただろう、と。
私の思いで「立つ」のではなくして、神の御旨を聴いて「立つ」、
そういう鎮まりを、
生き得ただろうか、と。

ヨセフは、主の天使の告げるのに従って、
「起きて」、マリアと御子とを連れてエジプトに出立する。
彼の人生、彼の計画、“わたし”の思いを彼方にして、
神のご計画のみを優先する。
救い主を守って歩む、という生き方に専心する。

そして私は、2014年の歳晩主日に、
「絶えず喚きちらしているわたしたちが
 静かに御前に立ち止まって」(*)、
ただ御声のみを聴くことができるように、と黙して、祈る。

「起きて」、
信仰の深まりへと、心の内を歩み出せるようにと、主に願いつつ。
ただじっと、この、私のため、にも来てくださった御子を、
そっと、
心の内に抱かせていただきつつ。

* * * * * *

(*)引用は、ジョン・キーブル、今橋朗編訳、『光射す途へと』の「降誕後第1主日」の祈り、の一部です。

余 yoteki 滴  (11月23日)

「主よ、あなたを呼び求めます」(詩28:1)

終末節黙想(2)

神は黙して、私に応えてくださらない。
神の沈黙は、絶望。
詩28篇の詩人は、神が沈黙なさるのならば、「わたしは墓に下る者」と同様だ、
とうたう。
神からの応えがない時、私は死者に過ぎない、と詩人は告白する。

神は、私に応えてくださる方か。
そして私は、
神の応えを、はっきりと聴いている、と言える者か。
私も、詩人とともに言う。否、私も「墓に下る者」に過ぎません、と。

私は、私の要求、私の願いばかりを神に祈る者。
神の御声を聴くために、只々、鎮まって、御前に沈黙しようとしない者。

私は、黙せない自分を見つめる。
そして、そのような私に、神は、祈るために膝をかがめることを許される。
その神の恵みの偉大さを思う。
そう、神は、私のために語られる。今も、静かに、御言葉の内に。

余滴(11月9日)

終末節黙想
「主は弱り果てたわたしを救ってくださる」
(詩116篇6節)

人生の結末をどのように迎えるか、私は自分で決めることができない。
このように生きて来たのだから、このように死ねる、と言えるわけではない。

詩116編の詩人は、嘆き祈る自分を知っている。
祈りが、嘆きで終始する時がある。詩人の状況は危機的。
詩人は、「死の綱がわたしにからみつ」くのを見ている( 3 節 )。好転の見込みはない。
しかし、その困窮の窮みにあって、116篇の詩人は、叫ぶ。神に叫ぶ。
御名を呼んで詩人は、「わたしの魂をお救いください」と言うことができることを知っている( 4 節 )。
神の御名を呼び得ることができる、と詩人は知っている。

詩人は、自分のことを、「哀れな人」( 6 節 )と理解している。
この「哀れ」は、「憐れ」ではない。
文語訳では「愚 ( おろ ) か」という訳。神の前に愚直であろうとする者、それが詩人。
「憐れまれる」ことすらなく、排除の対象でしかない「哀れ」さを覚悟をもって生きる、のが詩116篇の詩人。
そのような詩人に対して神は憐れみ深く、「正義を行われる」、必ず( 5 節 )。しかし、詩人の危機は去らない。

そして詩人は、確信している。「わたしたちの神は情け深い」と( 5 節 )。

詩人の神への信頼はなぜ揺るがないのか。
私は、そのことを巡って戸惑う。

私は、全てを主の御旨に託して、困難を、病いを、状況を受け入れることができない。私は、嘆く。
私は、詩人のような神への信頼に立ち得るのか。

詩人は、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に値高い」と宣言する( 15 節 )。
私は、詩人のように「主の聖徒」( 文語訳 ) と言い切り得る歩みを、
「われは活るものの國にてヱホバの前にあゆまん」と言い切る歩みを、
この地上で、生ききることができるのだろうか、と躊躇する。

しかし、自分に踏み留まる私も、この詩人に慰められる。
私の努力では「主の前を歩み続け」ることができないとしても、否、私の努力では歩み得ないのだから、
だから、神は、私に憐れみ深くいてくださるのだと、とのこの詩人の確信によって。

余滴(9月14日)

「御言葉を行う人になりなさい」
ヤコブの手紙1章22節

ヤコブ書は、御言葉を「聞くだけで行わない」のは、
「鏡」で「生まれつきの顔」を見ても忘れてしまう人だと言う。
「鏡」は、手本、模範という意味も含有している。
本当に聴き、方向を委ね得るのは御言葉だけなのだ、とヤコブ書は言う。
今、この時代に、
御言葉のみに頼り、御言葉を「行う」生き方を選びなさい、と。
そう、私たちは、自分の智恵、自分の思考を羅針盤にしている。
「鏡」を見なければ思い出すことができないような「生まれつきの顔」、
“自分の顔”を頼って生きている。
だから私は、
御言葉を「行」い、御言葉を「生きる」生き方が、自分の生き方の対極にあるのだと、
そのことに憧れなければならない。
深く、そしてはっきりと。

余滴(9月7日)

私をも信じなさい
(ヨハネによる福音書14章1節)

キリストは、弟子たちを前にして「わたしをも信じなさい」と言われる。
どうしてキリストは私「をも」、と言われるのか。
なぜ、
私「を」信じなさい、と諭されないのか。
そう、キリストは弟子たちに厳しくはっきりと迫る。
あなたたちの信仰は知っている。だが今時、なお一層、私を信じなさい、と。
それは、弟子たちをしてキリストを信じられない時が間もなく来るから。
十字架の出来事を見て、「心を騒がせ」る時が来るから。
だから、
神を信じるように、強くしっかりと私を信じなさい、と。
キリストは、
振起日のあした、私にも言われる。「わたしをも信じなさい」。
どんな時、時代であっても、しっかりと私の十字架だけを見つめて歩め、と。

余滴(8月24日)

「イエスを試そうとして」
(マタイ22:35)

一人の律法学者が、
「イエスを試そうとし」たのは、「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」と知ったから。
サドカイ派の人々は、
「復活」という自分たちを他の会派から峻別している課題から
キリストに問いを発する(マタイ22:23以下)。
が、この一人の律法学者は、
信仰の根幹を問う。
その問いは、単純だが深遠。
律法に生きる全ての信仰者がもつ問い。“旧約聖書とは何ですか?”、という問いに等しい。
そして、キリストの答え(37-40節)も、核心。
それは、父なる神ヤハウエが、律法の民全体に命じたことの中心。
そう、
キリストは、敵対するものの内側にあるまっすぐな思いにさえも目を留めてくださる。
では、私はどれほどの真摯さをもってキリストの前に立っているだろうか。

余滴 (8月17日)

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」
(ルカ1:45)

 マリアは、
受胎告知を受け入れた重い体をおして、叔母エリサベトを山里に尋ねる。
そして迎えたエリサベトがこのみ言葉を語る。
苦悩せざるを得ない生き方の中で、神のみをまっすぐみつめることの困難さを思う。
むしろ、
神などに頼らないで、他のものに一時的に待避している方が、よっぽど利口なのではないか、と。
でもマリアは、将来に、神の御旨の成就を確信する。
ただ信じ生きる時の、困難の中での幸いをマリアは示す。
そして彼女は、
虚心に神の前に立つ信仰を見つめる信仰の友、エリサベトと出会う。
伝統的な日課は、この聖句を8月15日に置く。
その重みを今年、ひしと感じる。

些事saji-bibou備忘 (2014年5月18日)

「つばめ」

牧師館の玄関に、ツバメが帰って来た。
いずれかが巣にいることが多くなったので、
たぶん、卵を暖めているのだろうと見ていた。

すると先日、
巣の下に卵の殻がきれいに二つに割れて落ちている。

おや、孵化したのか、
と巣を見上げたけれども変化は確認できない。

そう言えば、
去年も卵が1つ落ちたような後があって、
でも何事もなかったなあ、と巣を見上げると、
ツバメは、
うるさいと言わんばかりに私を見下ろしている。

余滴

(イースター黙想)
「走って行って」
(ヨハネによる福音書20 : 2 )

復活の朝早く、ヨハネ福音書では、マグダラのマリアだけが走る 。
マリアは、
十字架の上でキリストが、
「成し遂げられた」と言われて死なれた、あの時(ヨハネ福音書19 : 30 )、
葬りのための充分な時間が取れなかったので、
安息日が明け、夜が明けるのを、じりじりと待って、
エルサレムから、あの「園」 ( 19 : 41 )の 新しい墓まで走り、
誰よりも早く、墓に着いた。

誰よりも早く、だったのに、
でも、
墓の石は既に、何者かによって「取りのけて」あった ( 20 : 1 )。

マリアは、
再び走って、
ペトロと主の愛弟子とに、
「見た」ことを告げる。

そして、
さらに走って、
ヨハネやペトロと共に墓に戻る。

マリアは、主に追いつこうと思って走ってきた。
キリストの後ろ姿に向かって、その背中に追いすがろうと思って、
その背中を目指して走ってきた。
だからこの時、「身をかがめて墓の中を見る」。

彼女は、
自分の視線の前方にキリストがおられる、と思っている。
「墓の中に」、私の視線が見極めようとするその先に、キリストがおられる、と思って、
「墓の中を見る」。

確かに信仰とは、
キリストの十字架を仰いで己が馳せ場を行くこと。
マグダラのマリアも、そのようにキリストを追う。
その走りは立派。信仰ゆえの、あっぱれな、確実な足の運び。
キリストのみを目指して馳せ行く見事な走法。
でもそれは、
“キリストの背中に追いつきたい”という、彼女の思い。
そう、マルアは、“自分の思い”で走る。

そして、行き着いた「墓」で、
誰よりも早く来たはずの「墓」で、
人の思いを越えた神の御心が実現しているのを見る。

既に、
墓の石は、神の御旨によって取りのけられている。
でも、人はそのことを悟り得ない。
マリアもまた理解できない。

そして、自分の前にのみキリストを見いだそうと、ひたすら走って来たマリアに、
否、私に、
主は、後ろから近づいてくださる ( 14、16節)。
マリアは「振り返って」キリストと出会う。

今日、
キリストの復活に出会った者は、
マグダラのマリアも、
また私も、
後ろから近づいて来られるキリストの証言者になる。
前方、キリストの十字架を仰ぎ、人の計画 ( プラン ) に先立って、
神さまの摂理 ( ヴィジョン ) が実現することを確信し、
後方、近づいて来てくださるキリストに背中を押していただいて、
「わたしは主を見ました」( 18節 ) と
語り、伝えて行く者とされる。

そう、
復活の朝に、キリストに出会うために走る者は、皆。

余滴

四旬節黙想(2)
「わたしの後ろに従いたい者は、」
( マルコによる福音書8:34 )

私が固執するものは、何か。
“そんなことに?”、と人が言うような、“細かい”、或いは、“意味のない”ことに私はこだわる。
正確に言うのであれば、私は、私が、何にこだわっているのかを知らない。
そして、周囲からは、“おや、あんなことに固着するのだねぇ”、と思われていたりする。

私は執着する。
キリストの目からは実に不要な、無意味な事柄に対して。
そしてキリストは、私をも叱ってくださる。
あなたは、「人間のことを思っている」(同33節)と。

キリストは、主を戒めるペトロに、「わが後に退け」(文語訳。新共同訳は「引き下がれ」)と言われるように、
“私の後ろに従って来なさい”、と私にも声をかけてくださる。
“人間的なこだわりを捨てて、そういう自分かかえたまま、私の後ろに従って来なさい”、と。
十字架をしっかと見据えたまま、主は、私の傍らを通りかかる時に、そう、声をかけてくださる。

さて私は、声をかけてくださる主の眼差しに応えることができるのか。