余yoteki滴(2020年4月5日「週報」掲載)

「いかに幸いなことでしょう。

勝利の叫びを知る民は」

(詩89篇16節)

 

4月3日(金)の「ローズンゲン」の旧約日課。

詩89篇は、詞書(ことばがき)に「エズラ人エタンの詩」とある、ちょっと変わった詩。少し、神と詩人との間に距離がある。

その、両者の間の微妙な関係を感じさせるのが、16節以下。

エタンは謳う。

「いかに幸いなことでしょう。

勝利の叫びを知る民は。

主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます」。

そう、エタンは、神の御顔の栄光の内を歩み行く「彼ら」、イスラエルの人々を、少し離れて観察する。

そしてエタンは、18節で「あなたは彼らの力の輝きです」と、神に告白する。

 

エタンは、神の栄光の外にいる。神の栄光からもれている。

そういう自分の立ち位置を知っている。

エタンはエズラ人。「私は、神の御光の中を歩む民に属していない」、と知っている。

その意味では、彼は「勝利の叫びを知る民」ではない。彼は、勝利する側にはいない。彼は、イスラエルが勝利する時に、排斥され、敗走し、略奪され、故郷を追われ、闇の中を、輝かしい勝利の叫びを挙げ、追い迫る彼らから逃げ惑う、そういう者であると、自己理解している。

イスラエルの勝利、全能の神の勝利は、ここに一つの限界を示す。聖書の限界を示す。詩篇が編纂された時代、神の救いはその民の救いでしかない。

 

しかし、キリストの到来を知り、再臨を待つものたちがこの聖書の御言葉に出会う時、イスラエルの民が読んできたのとは違う感慨を、この詩篇に抱く。

そう、ちょうどキリストの十字架を見つめ続け、十字架の勝利を確信する女性たち(ヨハネによる福音書19章25節以下)と、十字架の最も近くでキリストと出会い、短いがはっきりとした信仰の宣言をする百人隊長(ルカによる福音書23章47節)とを思う。今や、「あなたは彼らの力の輝きです」(詩89:18)という者が、最も十字架の近くにいるのだ、と知る。そのように「十字架以外に知るまい」、と心決めたものたちは、読むことを得る。

 

この箇所、文語訳では

「よろこびの音(おと)をしる民は幸福(さいはひ)なり、

エホバよ彼らは聖顔(みかお)の光のなかを歩(あゆ)めり」。

「勝利の叫び」とは「よろこびの音」。そして新しい「聖書協会共同訳」では「幸いな者、喜びの叫びを知る民は。主よ、彼らは御顔の光の中を歩みます」と訳出されている。「勝利の叫び」とは、「よろこびの音」。喜びの叫び。それはキリストが近づいて来られる音。それは、主が、私に近づいて来られる時の音。キリストが、私に話しかけてこられる声。それこそが「よろこびの音」。

 

そしてそのことを「知る民」である教会は(だから私たちは、キリストの御声を、「知らない」、と言ってはいけない!)、私たちは、礼拝に集う群れは、キリストの到来の音を聴き、キリストの到来の喜びを語らなければならない。キリストの十字架、その恵み、あえて言えば十字架の勝利、その喜びを、私たちは、「知っている」、と語らなければならない。

なぜなら、私たちは、知らないままに主の十字架の真下まで歩み行くことを許され、キリストの十字架の真下でキリストの死を見つめ、キリストの十字架の死の意味を悟らせていただいたあの百卒長同様、後から呼び集められた者、「野生のオリーブ」に過ぎない者、エタンの裔なのだから。

 

【 余 yoteki 滴 】

主よ、わたしから離れてください。

(ルカによる福音書 5 章 8 節)

 

2019年9月のキ保連(「キリスト教保育連盟」)の主題聖句は、ルカによる福音書5:1-11の、いわゆる「弟子の召命」の記事からです。

 

イエスさまは、「ゲネサレト湖畔に立って」おられます(1節)。

そのイエスさまのところに、神の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せてきます。

イエスさまは、湖畔から、じりじりと、水面の方に追いやられてしまいます。

そして、イエスさまは、「二そうの舟が岸にあるのを御覧にな」ります。

不思議ですが、まず目を留められるのは「舟」でした。それから、この「舟」の関係者がイエスさまの目に飛び込んできます。「漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」(2節)。

 

彼ら、漁師たちにとって、「舟」は、生活の根幹です。

その「舟」に、3節ではイエスさまは勝手にお乗りになり、あまつさえ、「岸から少し漕ぎ出す」ように言われます。更に、「腰を下ろして」群衆を教えられたイエスさまは、今度は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われるのです。

さすがにシモンも、それに対しては、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」とまず反論します。

それでもシモンが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と応じたのは、横でイエスさまのお話しをずっと聞いていて、心に響くものがあったからなのかもしれません(4節)。

 

シモンは、“真っ昼間の漁”をします。

常識的には考えられないことです。

そして、彼らの常識が覆される出来事が起こります。

「おびただしい魚がかかり、網が破れそうに」なったのです(6節)。

彼らは、「もう一そうの舟にいる仲間に合図して」助けてもらうことにします。それでも、大漁過ぎて「舟は沈みそうになった」(7節)、とルカは記します。

なんと、イエスさまを乗せたまま、「舟は沈みそう」なのです。

 

そうなのです。

キリストの弟子となる、ということは、そのような生き方を選び取る、ということは、この世の常識から見たら見当はずれの、そして、イエスさまといっしょに転覆する、そんな「キケン」な、ワクワクするような歩み出しなのだ、ということなのです。

どうです、ちょっとあこがれませんか?

(「園だより」9月号に掲載したものを加筆訂正しています)

余yoteki滴

良い土地に蒔かれたものとは

(マルコによる福音書 4 章 8節)

 

2019年10月のキ保連(「キリスト教保育連盟」)の主題聖句は、「新約聖書」の「マルコによる福音書」からとられています。

イエスさまがなさるたとえ話です。4つの場所に「落ちる」種のお話しです。

そしてイエスさまは、やっと4番目の種が、「良い土地に落ち、芽生え、育って実を結」んだ、とお話しなります(ちなみに、マルコによる福音書4章1節には、イエスさまは、湖のほとりで「たとえでいろいろと教えられ」た、と書かれています。9月も湖のほとりでした。湖畔は教えを聞きうる場所として新約聖書の中ではイメージされていることがわかります)。

また、マルコによる福音書4章13節以下には、イエスさまご自身が、このたとえを「解説」してくださっています。

そこを読んでみますと、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」のことであることがわかります(4章20節)。

つまり「良い土地」とは、御言葉を聞く心の準備ができている、ということを示しているのだ、と思えてしまいます。そして、教会生活を長くしていると、「そうなんだよね、わかる~」、と思ってしまうのです。

でも、本当にそうでしょうか。

イエスさまの「解説」の言葉を、注意深く聞いてみると、イエスさまは「御言葉を聞いて受け入れる人」、とおっしゃっているのであって、〈御言葉を聞いて受け入れる心の準備ができている人〉、と言っておられるのではないのです。

私たちは、聖書の御言葉が「理解」できる、そのような心の準備(あるいは信仰的なトレーニングとか)が必要である、と思ってしまいがちです。

ですが、イエスさまがこのたとえで示しておられるのは、ただ無心に御言葉を聞く、ということなのです。私が、私の頭(のレベル)で理解するのではなく、イエスさまの言葉を、私の心の内にそっと受け取ること、そういう単純素朴なままでの在りようこそが、御言葉を聞く姿勢なのだと言われているのです。

つまり、鎮まって、素朴に、聖書に聞く、というのが一番難しい、ということなのでしょう。

(2019年9月23日幼稚園「園だより」のために)

余yoteki滴

幼児洗礼

 

今日、教会は、その責任として幼児洗礼を執行いたしました。

古代の教会では、幼児の洗礼は稀でした。

むしろ、洗礼は、成人した個人が、それぞれの責任と自覚によって洗礼を受けるものでした。

 

しかし、4世紀になってキリスト教が公認宗教になるに従って、中世までの間に幼児の洗礼が主流になって行きます。それは、特に中世以降、(カトリック)教会が、洗礼を受けずに(また終油を受けずに)生涯を終わると天国へと至れない、との信仰を強固にして行く中で、(つまり、幼児の死亡率が高い社会の中で、)幼児の洗礼は定着をして行くのだと言ってよいと思います。

また、カトリック教会が、洗礼とともに、堅信、結婚、終油などの人生の折り目の出来事を教会の範疇におさめて行ったのも幼児の洗礼が主流となって行く上で重要な要素であったと思います。

 

やがて、キリスト教会が大航海時代以降、キリスト教世界以外との接触を深めて行く中で、成人の洗礼は見直され、その重要性を認識されて行くこととなって行きます。

とはいえ、伊勢原教会の歴史を振り返ってみると、特に、伊勢原美普教会時代には、幼児の洗礼が多く執行されていることが確認されます。

この傾向の背景には、戦前の日本列島の社会の幼児の死亡率の高さもあると思われますが、同時に、メソヂストの系譜に立つ教会が、家族の信仰というものを強く意識していたからではないかと思われます。

つまり、テモテへの手紙(2)に「信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りました」(1:5)とあるように、教会は、家族のうちに信仰が継承されることを願ってきたのだと言ってよいと思うのです。

 

幼児の洗礼を教会が執行する時、私たちは、ですから教会の信仰の「試し」の時にあるとともに、教会が家族としての信仰を受け継ぎ続けて行くことができるか、という「試し」の前にも立たされているのだと言ってよいでしょう。そして、すべての主による「試し」は、教会を、またその群れに集う私たちの信仰を強めて行くものであると、そのように私たちは信じるのです。

(2019/07/14週報掲載)

余yoteki滴

七夕

 

本日、七夕です。

星を信仰の対象とするのは、古代社会で普遍的なことです。新約聖書でも、東方の占星術の博士たちは、星に導かれてキリストの元に来ます。

星の輝きは、いつでも不思議なことなのだと思います。

 

そして、去年は、西日本を豪雨が襲いました。

私が、教区の問安使として岡山・倉敷を訪れたのは7月の末でしたが、本来であれば稲刈りを迎えていたと思われる水田が、干からびた土砂の中に埋もれていました。

備州は江戸時代には既に有数の穀倉地帯です。ですからその光景は、この列島に生まれた者としては、何とも言い難い、悲しみに満ちた光景でした。水田の再建は難しいかも知れません。

そして、その水田と共に、多くの建売住宅なのでしょうか、新しい雰囲気の家が、二階まで水没した様子がありありと伺える状況でした。その中で、大庄屋なのでしょうか、古くからの家が、高く土塁を組み、その上にさらに屋敷の周りに白壁を巡らして水害を免れているのは象徴的でした。古くからの土地の人たちが持っている見識が受け継がれていなかったことにも、残念な気持ちが強く押し寄せてきました。私たちは、「文明」という名の下に、何を失ってきたのか、考えさせられる時でした。

 

それにしても、都会の空は星を見分けることもできないくらいになってしまいました。

世界の全てを作られた全能の神を信じる私たちにとって、神さまは、星をも作られた方ですから、もう少し夜空の美しい生活を取り戻しても良いのではないかな、と思います。さて、でも今日、彦星、織星は輝いてくれるでしょうか。天気は御手の内です。

(2019/07/07週報掲載)

 

余yoteki滴

(2019年度の聖句と標語)

○聖句  主御自身があなたに先立って行き、

主御自身があなたと共におられる。 (申命記31章8節)

○標語  主なる神が、いつでも共にいてくださる恵みに生きる。

(2019年3月17日総会議決)

 

2019年度、伊勢原教会は、上記の聖句、標語を掲げて歩みたいと願っています。

上記の聖句は、モーセがヨシュアを呼び寄せて語る言葉の一部です。

 

モーセは、出エジプト以来の「全イスラエル」の前で、「もはや自分の務めを果たすことができない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」と語り始め、そしてヨシュアがこれからは「全イスラエル」を率いて行くということを語り、ついでヨシュアに語りかけます。「強く、また雄々しくあれ」と。

 

つまり、ヨシュアも「全イスラエル」もぜんぜん、強くも雄々しくもないのです。

むしろ、モーセが“もう私は無理”と語ることに恐々とし、前途への不安や、将来への暗い予想に打ちのめされようとしています。モーセの「強く、また雄々しくあれ」は空手形のようにしか聞こえません。

 

でも、モーセの「元気」、「安心」、「笑顔」の根拠は主なる神にのみあるのです。

大丈夫、いつでも神さまは一緒だから、とそう言うのです。

神さまが一緒、ということは、では、どういうことなのでしょうか。

モーセは、「主御自身があなたに先立って行」かれる、と語ります。神さまが一緒、というのは、私の前を主が先立って歩まれる、ということなのだとモーセは語るのです。

 

私が大変な時に、私のかたわらにそっと来てくれる、とかいうような、なまやさしいことではない、とモーセは言います。

神さまが一緒ということは、時に、神さまのスピードで、神さまのペースで行くことを要求される、とモーセは語ります。神さまの後を、一所懸命、追いかけるような、そういう大変さを伴うのだ、と言うのです。

 

私たちが、まだまだだ、とか、これから準備をして、とか、じっくり計画を立てて、とか語り合っている時に、神さまはすでに出発された、と私たちは聞かされるのです。

そして私たちは、とるものもとりあえず、まさに「押っ取り刀」で先立たれる神さまを見失わないように追って行くのです。

 

主の恵みは、いつでも私たちに先行します。

恵みの足は速く、神さまは先へ先へと進み行かれるのです。

ですから、私たちは、驚愕します。

そして人間の、自分の、私の、予定や計画や打算が打ち砕かれるのを見ます。でも、モーセは言います。「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」と。主がどんどん先に行かれても、「恐れてはならない。おののいてはならない」のだと。

 

2019年度、私たちは、ここ伊勢原教会をお用いになる神さまの人知をはるかに超えた恵みに驚愕しましょう。

困難や、分裂や、悲しみの只中で顕(あれわ)される神さまが先立たれる恵みに気付きましょう。

そして祝福の満ち満ちていることの喜びを、孤独、無理解、中傷、挫折のその痛みの中で深く知りましょう。

キリストの十字架は、私の、教会の、弱さ、痛み、悲しさのうちにこそ打ち据えられ、高くしっかりと掲げられるのですから。

(2019/05/05週報掲載)

余 yoteki 滴

  • 長老任職式について

 

日本キリスト教団の『口語式文』(1959)「役員任職式(就任式)」のルブリック( – 一種のト書きのこと – )には,

「教会役員に選挙された時,任職式(就任式)を行わなければならない。任職式か就任式かの選択は,各個教会に委ねられる」(p.192)

とあります。

伊勢原教会は、メソヂストの系譜に連なる教会です。よって、メソヂスト教会のもってきた職制理解であれば、教会役員は「執事」ないし「幹事」と呼ばれます(日本メソヂスト教会であれば「幹事」)。

 

しかし、現在、私たちは、「長老」を擁する教会として、メソヂスト的な伝統の中を歩んでいます。

では、「長老」とか「執事」とかの違いは何でしょうか。教団の『新しい式文』(1990)の解説には次のように記されています。

役員を長老と呼ぶ教会では「任職式」が用いられてきた。

教会の職制として長老職に任じられ、最初に長老になる時には、長老の按手がなされた。

これは生涯長老であることを意味し、長老として選出されなかった時も、現職と休職の相違はあっても、長老であることは変わらない。そこで、再選の時には報告だけで特に式はしない。

「執事」「幹事」の場合には、長老のように終身その職につくのではないので、「就任式」と呼ぶのが正しい。

 

つまり「任職」とは、その任(務)への召命を意味する,と考えられ,就任( – 一時的にその役割りを担うこと – )とは区別して理解されて来た、ということです。

教会役員を、「長老」と呼ぶか、それとも「執事」「幹事」と呼ぶかは、些細なこと、ではなく、教会論というものによって示されている職制理解というものが、その内側にある、ということです。

 

そして『式文』では,その「任職の辞」において,牧師は,教会とキリストとを代理して,選ばれた役員(長老)にこう確信をもって宣言するのです。

「あなた(がた)は,キリストの召を受けてこの務に聖別されたのでありますから,(主は)これから後も,必要な恵みと知恵とを与えてくださいます」と。

私たちは、2008年以来の長老任職式に今日、立ち会います。

(2019/04/21週報掲載)

 

余 yoteki 滴

「価値があるものではないか」

(マタイによる福音書6章26節)

 

上記の聖句は、3月22日の「ローズンゲン」新約日課。

キリストは、マタイによる福音書6章25節で、「思い悩むな」と教えられ、そして続けて、あなたは「鳥よりも価値あるものではないか」と語られる。

この言葉に、人々は驚く。

鳥よりも価値がある、と言われたことはなかったから。鳥は獲って食べることができる。でもお前は穀潰しで役立たずではないか、と言われていたから。領主であれ、地主であれ、村長であれ、収穫の役に立たないものを不要な存在、無用な存在として扱う。私はそう扱われて来た。無為徒食である。無駄である。「働き」のない私は、それに抵抗できない。

 

しかしキリストは、自分の命のことで、自分の体のことで思い悩むな、と今日、私に言われる。

そのままの私を、キリストはご覧になる。飾ることではなく、言い繕うことではなく、そのままでキリストの前に歩み出しなさい、とキリストは言われる。あなたには「価値がある」、キリストはそう私に語りかけられる。

(2019/03/24週報掲載)

 

余 yoteki 滴

「主の祈り」を祈る

 

「キ保連」(キリスト教保育連盟)の3月の聖句は、マタイによる福音書の最後の言葉です。ご復活のキリストが弟子たちに告げる、マタイによる福音書におけるイエスさまの最後の言葉です。

そこでイエスさまは、お弟子さんたちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)と言われます。でも、イエスさまはご復活から40日後に、みんなの見ている前で天に上げられ、私たちには見えなくなってしまいます。

 

その時、天を見上げていた人々に、天からの使いはこう告げます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。この天使の言葉は驚きです。イエスさまがもう一度おいでになる、とはどういうことなのでしょうか。この時、集まっていた人たちもやっぱりこの言葉に驚いたと思います。

 

そして、驚いた人々はどうしたのかというと、「彼らは皆、婦人やイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1章14節)と聖書は記すのです。

では、この時、彼ら彼女たちはどう祈っていたのでしょうか。

私は、この時、彼ら彼女たちが、「これだ!」と思い出し、祈っていた祈りは、「主の祈り」だと思うのです。イエスさまが、いつでもこのように祈りなさい、と教えてくださった「主の祈り」が、この時、彼ら彼女たちの祈りの生活の中心、信仰の中心となったのです。そしてそのことは、今でも変わらないのです。

 

*「主の祈り」は、聖書の中では、マタイによる福音書6章9節以下とルカによる福音書11章2節以下に出ていますが、年長組が覚えるのは、そして教会で祈られ続けているのは、祈りの形として整えられ、教会が継承してきた「主の祈り」です(「讃美歌21」に、また「こどもさんびか改訂版」にも載っています。ご参照ください)。

(「園だより」3月号より、一部修正)

(2019/03/17週報掲載)

 

余yoteki滴

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(ローマの信徒への手紙 12 : 15 )

 

ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ会ったことのないローマにいるキリスト者たちに宛てて記した手紙です。

受け取り手は、ローマにいるキリスト者たちですが、彼らが「ローマ人」であるとは限らないわけです。むしろ、ローマの教会は、いろいろな国や地域の人たちが集う、文化も、言語も、肌の色も、多様な、さまざまな人たちの集まりだったのではないかと思われます。

そういう人たちに向かって、パウロは、この言葉を書く前に「愛には偽りがあってはなりません」とまず語ります(12章9節)。

 

あえてパウロがそう記す、ということは、「愛」には偽りがあるのだということです。

文化や育ってきた環境が違えば、「愛」についての、概念にも、理解にも、違いがある、ということなのでしょう。そして、私たちが「愛」だと思うものは、しばしば私の利己心の投影でしかない、ということがある、ということです。

ですから、「愛する」、ということは実は難しいことなのでしょう。

 

パウロは、キリスト者として、そういう難しい「愛」を生きるために、「たゆまず祈りなさい」と奨めています。

「愛を生きる」とは、たゆまず祈ることの内でしか実現できない、とパウロは実感していたのでしょう。ですから、私たちは、どれだけ他者のために祈っているだろうかと、ふと、振り返ってみる必要があるのでしょう。

ところで、喜ぶ人と共に喜ぶことと、泣く人と共に泣くことと、どっちがより難しいことなのでしょうか。私たちは、そのこともこの2月に、深く考えてみたい、と思うのです。

(2月の「園だより」から)

(2019/03/03週報掲載)