余滴(2009年3月15日)

余 yoteki 滴(Y-09-05)
『「150年」断想』(その2)
「神に希望をかけています」
(2コリント1:10)

150年前(1859年)以降,横浜に来た宣教師たちは,インド,中国,朝鮮半島での伝道活動に基づいて,医療と結びついた宣教は有効であると考えていました。そこで,医療伝道者として,横浜にはドクター・ヘボンがアメリカ長老教会から,また琉球には英国国教会のベッテルハイム医師が派遣されました。しかし江戸幕府の鎖国体制下であっても,漢方医,蘭医の医療水準は相応に高いものでしたから,( – もちろんヘボンさんの施療所は流行りましたし,ずいぶん多くの医師がヘボンさんに弟子入りして新しい医療を学んでいます。でも, – )他のアジア諸地域のようにそれがダイレクトに福音宣教の成果とはなりませんでした。

余談ですが,伊勢原における最初の「洋医」である江口次郎人は,鶴岡の人ですが,横浜で西洋医学を学び,伊勢原で,婿入りした江口家を継ぎ「眼科医」を開業しています。横浜のどこで西洋医学を学んだかはつまびらかではありませんが,ドクター・ヘボンの眼科治療薬は爆発的な人気だったようですし,クリスチャンとして,また社会事業家として伊勢原で活動しているところから考えれば,彼とドクター・ヘボンとの間に何らかの関わりがあったと考えてもいいように思えるのです( – 江口次郎人は,伊勢原美普教会に転入しています。洗礼は,横浜で受けた,と考えるのが順当のように思われます。- )。

ところで,1858年に各国と締結された「和親条約」は,居留地内での居留民の信仰生活を保障したものに過ぎず,キリシタンと日蓮宗不受不施派とを禁令とする高札はまだ有効でした。ですから,プロテスタント各派もカトリックも,居留地内の教会として,まず存在しました。

一般の人たちへの布教活動はまだ事実上不可能でした。しかし,そのような中で,1865年3月17日に長崎の大浦天主堂で,一つの「事件」が起こります。この日,プチジャン神父は,200数十年前にカトリック教会が残していったキリシタンの末裔たちと出会います。「マリアさまの御像はどこですか」、と訪ねる浦上の隠れキリシタンたちは,伝えられていた「天使祝詞」を祈り,自分たちがキリシタンであることを言い表したのでした( – 日本のカトリック教会は,この日を「長崎の信徒発見記念日」として祝い,覚えています – )。

このことは,後に「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件に発展しますが,多くの殉教者を出すと共に,その血によってキリシタン禁令の高札は撤廃されるのです。

さて,そのような中,新開港地である横浜では,2つの働きが始まっていきます。一つは宣教師たちによる「英語学校」の開始です。またもう一つは,孤児院です。開港地横浜には,多くの混血児たちが誕生し,多くが非常に困難な状況に置かれていました。横浜では,プロテスタント教会の働きとして,「アメリカン・ミッション・ホーム」が,またカトリックの働きとして「仁慈堂」もしくは「菫学院」が,それぞれ混血児の養育,教育活動を行っていくのです。

初期の横浜は混沌とした新興地でした。一旗上げようとアジアを遍歴してYokohamaに来る商人,船員,技術者。関東一円のあきんどたち。さらに攘夷派。ローニン,警護の諸大名の家来たち。国籍も人種も(英国,米国,仏蘭西,独逸,和蘭,露西亜,中国,等などと)多様で,「鎖国」の間,体験したことがなかった混乱と喧騒と山っ気と商売熱心さと,そして多くの挫折と悲しみがあったはずです。

混乱と困窮の只中にあるだけに,「神に希望をかけています」(2コリント1:10)とのパウロの言葉は,福音宣教者たちの,唯一のよりどころだったと思うのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青 年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。
*横浜は,この「悲しみ」を歴史において繰り返していきます。戦後には,澤田美喜と「エリザベスサンダースホーム」の重要な働きがありました。
*アメリカン・ミッション・ホームは後の横浜共立学園,また「仁慈堂」或いは「菫学院」は横浜雙葉学園のそれぞれ源流となっていきます。

余滴(2009年3月8日)

余 yoteki 滴(Y-09-04)
『「150年」断想』(その1)
「大きな門が開かれている」
(コリント(1)16:9)

150年前(1859年),横浜や長崎に来た宣教師たちは,決して偶然に来たわけではありません。彼らは,周到に用意された(はずの)宣教計画の中で日本を目指したのです。
『英国教会伝道協会の歴史』(ユージン・ストック,編,聖公会出版,2003)は,そのことを1899年の,それも英国側の証言として次のように伝えています。
「中国が福音に対して門戸を開くきっかけとなった戦争に参加していたイギリス海軍の士官の何人かが、キリスト教徒としての愛をもっと東にある神秘的な帝国に及ぼしていた。日本には直接に近づくことができなかったので、彼らは琉球の島々のことを考えた。…1843年、彼らはCMS(英国教会伝道協会)に対して琉球に送る人を求めた」(p.14)。
この,彼らの熱意とポンド立ての強力な資金が,ベッテルハイムを琉球へと赴かせるのです。つまり,アジアにおけるヨーロッパ列強の砲艦外交は,領土利権,軍事利権,経済利権などと共に,アジア伝道という機運も含有するものなのです。
そして,1858年に徳川幕府が各国と結ぶ「和親条約」において(翌年発効),各国は,居留地内での自国宗教の礼拝が認められましたから,宣教師たちはとうとう,「神秘的な帝国」での拠点を確保したのでした。
ですから,1859年,「宣教150年」とは,始まりの年ではなくして,19世紀列強が,一つの結果を「神秘的な帝国」に対して出した,「終わりの年」,一つの終わりによって告げられた新しい始まりの年なのです。
パウロは,コリントの信徒への手紙(1)の結び近く,マケドニアを経由し6コリントに至るという旅の計画を述べる中で,エフェソに滞在する理由を,「大きな門が開かれているだけでなく,反対者もたくさんいるからです」と述べています( 16 : 9 )。福音宣教者が熱心の上にも熱心であるとき,反対者もまた大きな勢力となって出現してきます。パウロがエフェソに感じていた思いは,19世紀の横浜で,宣教師たちが抱く思いでもあったと思うのです。つまり,福音は力強い反対を受ける時にこそ,実に真理としての輝きを増すのだと,宣教師たちの働きは私たちに教えているのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。

*1899年はCMS創立100周年でした。

余滴(2009年2月15日)

「教会暦・行事暦から」(C-09-02)
灰の水曜日 – 2月25日(移動祝日) –
「富は,天に積みなさい」
(マタイによる福音書 6 章 20 節)

「灰の水曜日」(大斎始日)から,四旬節(「レント」,「受難節」,「大斎節」)です。「四旬節」とは,その期間の及ぶ範囲(主日を除く40日間)のことを,「受難節」とは,主のご受難を覚える,と言うことを中心的に考える言い方です。また,「大斎節」とは,主のご受難を覚える私たちの態度です。この3つの要素を併せ持つ時として,「レント」を覚え,守りたいと思います。
歴史的には,4世紀以降,洗礼志願者が過ごす最後の準備の時節としての,復活祭前の「40日間」(クワドラゲシマ)がその起源です。ですが,成人の洗礼者が皆無となった中世以降,特に「大罪」を犯して教会共同体の聖餐の交わりを絶たれた人たちが,悔い改めて教会に復帰するための悔悛の期間ともなりました。
「40」という数字(日数,年数)は,聖書の中では,象徴的な数字(日数,年数)として表れます。ノアの洪水(創世記7:4以下)は,40日間続きますし,モーセはシナイ山に40日間留まります(出エジプト24:18,34:28)。他にも,出エジプトの民の荒野での期間は,40年間(ヨシュア5:6)ですし,エリヤはホレブ山に40日間かけて登ります(列王記(上)19:8)。新約では,イエスさまは40日40夜荒野で誘惑をお受けになります(マルコ1:13)。
これらの記事から,「40」は,その期間の時間的な長さではなく,その数字のうちに含有される精神的長さ(内容)を指し示している,と考えられてきました。
「灰の水曜日」には,その前の年の「棕櫚の主日(枝の主日)」に用いた棕櫚の枝を焼いた灰を用いて,額に十字のしるしをつけ,悔い改めと主のご受難に思いを馳せる40日をはじめます(ですから「大斎始日」とも言います)。そして,すべてをご存知の主に,悔い改めた心をもって仕え,主の十字架を仰ぎ見る力を与えていただくように祈ります。
2009年の教団「特定行事の聖書日課」は,この日のための聖句として,マタイによる福音書 6 章 16 – 21 節を示しています。イエスさまは,断食について教えられる時,それは,「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただきため」(18節)と教えておられます。そして,そのように御父に祈り,御言葉のうちに留まることこそが,“富を天に積む”ということなのだと示されるのです。「富は,天に積みなさい」(20節)と言われる主の御言葉に留まり,主の十字架を思いつつ,この時節を歩みましょう。

余滴(2009年2月8日)

「ふさわしくないままで」
(コリントの信徒への手紙(1)11章27節)


聖餐式の際に,私たちは,使徒パウロによって,「ふさわしくないままで主のパンを食べたり,その杯を飲んだりする者は,主の体と血に対して罪を犯すことになります」(コリント(1)11:27)と教えられ,その,主なるお方については,『「キリスト・イエスは,罪人を救うために世に来られた」,という言葉は真実であり,そのまま受け入れるに値します』(テモテへの手紙(1)1章15節)と示される。「ふさわしくないままで」あり続けるしかない私たちには,それ故,聖餐に預かる前に懺悔と悔い改めとが求められる。だから私たちは,「ふさわしくないままで」,そのままで,神の前に立つことがゆるされていることに驚きつつ,胸を打ちながら悔い改める。そして,ゆるされた者として,和解のパンだねになるために主の食卓に連なる者とされる。
☆★
105年前の伊勢原において,メソヂスト・プロテスタント教会の宣教師たちや教役者たちは,この地に教会を立てることを願った時に,自分たちがそのことに“ふさわしい”とか,教会こそがこの地に“ふさわしい”とか思っていたわけでは決っしてない。むしろ,自分たちの“わざ”が,本当に神の御旨であるのか,祈り続け,神に問い続けていたと思う。それでも日本への伝道を続けて行こうとするのは,「ふさわしくないままで」救いの只中にいる,というこの喜びを伝えようと願ったからだし,そのことは聖餐の恵みを通してしか伝えられないと知っていたからだといってよい。メソヂスト・プロテスタント教会の「式文」である『日本美普教會禮文』に収められている「晩?式」はごく短い。だが,聖餐に向き合う真摯で敬虔な信仰が表出している。
☆★☆
美普教会は大きな教派ではない。日本各地への伝道においても先駆的というわけでもない。むしろ,幕末に,開国以前の日本に,熱い視線を送り,信仰を伝えようとした諸教派に比べれば,その海外宣教は後発的で地味なものだったといってもいい。
しかし,横浜に入港した宣教師たち,その後の日本人教役者たちによって,横浜第一美普教会(現在の横浜本牧教会),横浜第二,横浜第三(この二つは合同し,現在の蒔田教会),平塚美普(現・平塚),伊勢原美普(私たちの教会!),静岡美普(現・静岡草深),熱田美普(現・熱田),名古屋美普(現・中京),四日市美普(現・幸町)などの諸教会と,名古屋学院,横浜英和(横浜成美→横浜英和)などを残して行く。
☆★☆★
教会の歩みとは,人の歩みではない。教会の歩みとは,F.C.クラインから始まる宣教師たちが表敬される歩みではない。教会の歩みとは稲沼鋳代太牧師ら美普教会の教役者たちが顕彰される歩みではない。
教会の歩みとは,「ふさわしくないままで」主に捕らえられ,福音の内に入れられ,聖餐の恵みに与かる者とされた,その喜びを,市井に生きる信仰者として伝えて行く,そのことに尽きる。“キリストは,この私のために,世に来られた”,という言葉は真実であり,そのまま受け入れるに値します,との告白を生きる,こと。
「値します」と訳されている言葉は,本来は,天秤におもりを吊り下げること(玉川)。そこから,重要である,価値がある,という意味が出て,聖書の中では,「ふさわしい」とか「値する」というように用いられる。キリストは,罪人であるこの私を救うために,この私のために世に来られた。その言葉の真実の重みに自分を預けきる,ということが「値します」との聖句を己が言葉とするということ。そのことに人生を賭し続けてきた信仰の先達たちの歩みに,無名の一人として連なって行きたいと,それ故思う。

余滴(2009年2月1日)

「主よ,わたしたちにも祈りを教えてください」
(ルカによる福音書11章1節)

ある時,ペトロさんがイエスさまに,友達のためには何をしたらいいでしょうか,と尋ねました。ペトロさんは,きっとこんな風に考えていたのかもしれません。それは,「友達のために何をしたらいいですか」とイエスさまにお尋ねすると,イエスさまが,
泣いている友達と一緒に泣いてあげるといいよ,とか,
うれしそうにしている友達には,なにかいいことがあったの,と聞いてあげるといいよ,とか,
そういうイエスさまのお言葉を,思い描いていたのかも知れません。
でも,「友達のためには何をしたらいいでしょうか」というペトロさんの質問に,イエスさまは,こうお答えになりました。ちょっと難しいけれど,聖書に書いてある通りに言います。イエスさまは,こう教えられました。
「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)。
ペトロさんは,「えー,それは難しい」と思いました。だって,もっとイエスさまは,“こういう時にはこうしたらいいよ”,って教えてくださるものだと思っていましたから。「イエスさま,それって難しいと思うんですけれども」,ペトロさんはイエスさまに言いました。だって、“いのちを捨てる”なんてそんなことできませんし。
そうだね,ペトロ。その通りだ。でも,今日,この時間,外で遊ぼうとしているこの時間,自分で自由にできると思っているこの時間,自分のものだと思っているこの時間,この時間を,友達のために使ってみたら。そう,ペトロ。あなたがさっき思っていたように,悲しんでいる友達の隣りにいてあげること,一人ぼっちでいる友達と一緒にいてあげること,そういう風に自分の時間を使ってみたら。そしてその友達のために祈ってあげてみたら。
えー,でもお祈りと言われても,どうやって祈ったらしたらいいか,わかりません。
では,ひとつのお祈りを教えてあげる。
そうイエスさまはおっしゃって,お弟子さんたちに“主の祈り”を教えてくださいました。

天にまします我らの父よ,
ねがわくは み名を あがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を,今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を
我らがゆるすごとく,
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず,
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。(1880年訳)

2月には“主の祈り”を覚えます。
もちろん,教会学校に通ってきているお友達はもう知っていると思います。私たちも,イエスさまから“主の祈り”を教わって,そしてお友達のために祈ってあげることのできる一人一人になりたいと思います。
(2009/01/28,幼稚園・会堂礼拝の説教から)

余滴(2008年1月18日)

「主における聖なる神殿」
( エフェソの信徒への手紙 2 : 21 )

今日( 1/17(土)),私たちはこの建物の棟上式を行おうとしています。今日まで,実に多くの方のお仕事が結集して,こういう形になりました。と同時に,私たちは,この仕事の内にキリストの恵みというものが働いている,ということを知るのです。
多くの時間を積み重ねて計画されて来た私たちの思いは,主の恵みを求めてのものでした。“ハコ”を作るということは,その“ハコ”に盛るべき精神というものを,はっきりと意識化しなければならない,ということです。では,キリスト者が住まう所には,どういう形で神の宮が顕されたらいいでしょうか。
聖句が掲げられる,祈りの部屋がある,ということでしょうか。もちろん,それらも大切です。しかし,それ以上に,この家が祈られて建てられた,ということが重要だと思うのです。
約3年にわたって私たちは,牧師館を持たない,という時間を過ごしてきました。これはとても意味のある時間であったと思うのです。
教会の歴史において言うのであれば,初代教会は旅する教会でした。使徒たちも,それに続く福音宣教者たちも,皆,旅をして福音を伝えて行きました。とどまり,祈り,そして再び旅立つ,それが福音宣教者の姿でした。今から150余年前,日本に来た宣教師たちも,旅する福音宣教者でした。もちろん,アメリカなどの海外から日本へという長い旅もありましたし,この日本の中でも,町から町へ,馬に乗り,船に乗り,福音を携えて行ったのです。
ここ伊勢原に福音を伝えたメソヂスト・プロテスタント教会(美普教会)の教役者,宣教師たちも,時に平塚から,東京から,わらじを履いて,馬車に乗ってキリストの恵みを伝えたのです。今年,私たちの教会は創立105周年を迎えます。今,私たちは100有余年前の伊勢原教会草創期の熱情を深く感じたいと思います。
多くの福音宣教者たちによって招かれ,御言葉の真理に聴いた古の,はじまりの時の,熱い思いに深く満たされたいと思います。105年目の始まりに,そのことを祈りましょう。そして福音宣教のために祈りましょう。そのために,ここに,牧師を迎え入れましょう。ここが神の宮であり,神のみが証しされる場所となるように祈り続けましょう。これからの全ての工程の安全と無事を祈りましょう。
やがて私たちの存在も歴史になります。だからこそ、100年前の福音宣教者と共に,正しい信仰をこの地に伝え続けていくために,今日,この時,心を新たにされていきたいと,私たちは願うのです。
(2009年1月17日,牧師館上棟式「奨励」から)

余滴(2008年1月4日)

あけましておめでとうございます
– 神の定めに従う生き方は喜び –
(詩119篇14節)
今年もよろしくお願いいたします。

昔,ファンダメンタルな会派が出している子ども向けのキリスト教説話集みたいな本が我が家にあって,私は時々それを読んでいた。
読む時というのは,たいてい,熱とか腹痛とかから始まって喘息をおこしてしまって,学校を休んでいる,というような午後だった。寒い季節
で,布団から手を出すのがいやで,本ごと掛け布団の中に入っていたりした。
その説話集の中に,お父さんが子どもたちに,「神さまがくださったものでみんなに公平にあるものは何か」と問う,という物語りがあった
( – ような気がするというべきか – )。子どもたちは,あれこれ答える( – お金だとか,食事だとか,勉強だとか – )。でもお父さんは,それらのどれにも「違う」,と言い,そして時計を見せる( – このシーンが,挿絵に描かれているのだが,その時計というのが,ベルが2つついた目覚まし時計だった。もっとも,というような気がするというべきか – )。そして,「24時間だ」と答える。誰に対しても等しく「一日は24時間だ」と答えるのだ。
子供心に,私はこの「平等主義」を,激しく嫌悪した。
その時にはうまく表現することができなかったけれども,「24時間」は同じでも,その内実には,歴然とした差がある,ということは,子供なりに感じていた。その時私が,布団の中で,天井に向かって語れたのは,“仮に「一日24時間が一緒」でも,その積み重ねである人生の長さは人それぞれなんじゃないの,だからこれはおかしいんじゃないかな”,という程度ではあった。
この世の価値で言えば,人生は平等ではない。才能も,体力も,環境も,皆,平等ではない。しかし,キリスト者として生きる,ということ
は,命の長さ,短さではない。ましてや,「24時間」の,( – バブル期の,「24時間働けますか」というC.M.が象徴していたような – )この世的な意味での充実を誇ること,でもない。「イエスは主である」と告白すると言うことは,キリストと共に歩むということに生活を賭して行く,ということ。このありのままの,私の,つまらないことで費やされていくこの「24時間」を,“主が用いてください”,と差し出して行く,ということ,なのだと思う。
翻って,私の「24時間」を思う時,私は,大いにあわてる。主に収穫していただくにふさわしい時間の過ごし方をしてこなかったと,つくづく思うから。それゆえ,「あなたの定めに従う道を喜びとしますように」(詩119:14)と詩篇の詩人が祈るのを聴く時,この2009年,主の道に歩み続けることのゆるされる毎日でありたいと,心から願うのである。

2013年度 礼拝予定・行事予定

このページでは今後の礼拝予定と行事予定を、紹介しています。
1. 2013年度 礼拝予定

3月30日(日)四旬節第4主日(ラエターレ)礼拝
聖書   ヨハネによる福音書9章 1-14節
説教   「晝(ひる)の間(うち)に」
讃美歌  16、51、241、297、84

3月23日(日)四旬節第3主日(オークリ)礼拝
聖書   ヨハネによる福音書 4章 5-26節
説教   「真(まこと)の礼拝者、霊(れい)と真(まこと)をもて父を拝する時」
讃美歌  16、404、432、472、84

3月16日(日)四旬節第2主日(レミニスツェレ)礼拝
聖書   ヨハネによる福音書3章 1-17節
説教   「モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく」
讃美歌  16、296、433、436、84

3月9日(日)四旬節第1主日(インヴォカヴィット)礼拝
聖書   マタイによる福音書4章 1-11節
説教   「御霊によりて荒野に導かれ」
讃美歌  16、Ⅱ篇158、377、425、84 

3月2日(日)顕現後第8主日聖餐礼拝
聖書   マルコによる福音書4章 35-41節
説教   「夕(ゆうべ)になりて」 服部能幸牧師
讃美歌  13、528、440、353、72、83、86、19

2月23日(日)顕現後第7主日礼拝
聖書   マルコによる福音書2章 1-12節
説教   「屋根を穿ちあけて」 服部能幸牧師
讃美歌  13、257、225、163、19

2月16日(日)顕現後第6主日・創立記念日聖餐礼拝
聖書   マルコによる福音書4章 1-9節
説教   「良き地に落ちし種あり」 服部能幸牧師
讃美歌  13、352、434、Ⅰ篇327、77、83、86、19

2月9日(日)顕現後第5主日礼拝
聖書   マタイによる福音書5章 13-20節
説教   「燈火は家にある凡ての物を照らす」 服部能幸牧師
讃美歌  279、55、300、438、19

2月2日(日)被献日(主の奉献)聖餐礼拝
聖書   ルカによる福音書 2章 22-40節
説教   「わが目は、はや種の救を見たり」 新井美穂牧師
讃美歌  279、58、181、468、81、83、86、19

1月26日(日)顕現後第3主日礼拝
聖書   マタイによる福音書 4章 12-23節
説教   「ガリラヤ中を回って」 服部能幸牧師
讃美歌  279、173、288、460、89

1月19日(日)顕現後第2主日礼拝
聖書   ヨハネによる福音書 1章 29-41節
説教   「イエスは見つめて」 服部能幸牧師
讃美歌  279、330、383、392、89

1月12日(日)顕現後第1主日礼拝
聖書   マタイによる福音書 3章 13-17節
説教   「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」 服部能幸牧師
讃美歌  279、358、277、174、89

1月5日(日)降誕後第2主日聖餐礼拝
聖書   マタイによる福音書 2章 1-12節
説教   「幼子は母マリアと共におられた」 服部能幸牧師
讃美歌  240、Ⅰ篇105、254、275、276、83、86、89

12月29日(日)降誕後第1主日(歳晩主日)礼拝
聖書   ヨハネによる福音書 1章 14-18節
説教   「恵みと真理はイエスキリストを通して」 服部能幸牧師
讃美歌  240、Ⅰ篇104、267、268、89

12月22日(日)待降節第4主日クリスマス聖餐礼拝
聖書   マタイによる福音書 1章 18-24節
説教   「栄光に輝く王」 新井美穂牧師
讃美歌  240、3、248、260、513、83、86、89

12月15日(日)待降節第3主日礼拝
聖書   ペトロの手紙(2) 3章 8-14節
説教   「主は忍耐しておられる」 服部能幸牧師
讃美歌  240、253、241、Ⅰ篇469、89

12月8日(日) 待降節第2主日礼拝
聖書   テモテへの手紙(2) 3章14- 4章8節
説教   「神の言葉と祈りによって」 服部能幸牧師
讃美歌  240、237、238、1篇531、89

12月1日(日)待降節第1主日聖餐礼拝
聖書   マルコによる福音書 13章 21-37節
説教   「わたしの言葉は決して滅びない」 服部能幸牧師
讃美歌  240、229、235、Ⅰ篇531、232、83、86、89 

11月24日(日)収穫感謝祭(終末主日)
聖書   使徒言行録 27章 21-26節
説教   「だれ一人として命を失う者はない」 服部能幸牧師
讃美歌  こ5(-)、こ10(-)、こ106(-)、こ108(421)、こ242(64)、こ25(24)

11月17日(日)終末前主日礼拝
聖書   詩 98編
説教   「新しき歌を謳(うた)え」 服部能幸牧師
讃美歌  20、287、363、579、91

11月10日(日)終末前々主日礼拝
聖書   詩 17編
説教  「わが霊魂(たましい)を救(すく)い給(たま)え」 服部能幸牧師
讃美歌 20、512、493、284、91

11月3日(日)召天者記念日(三位一体後第23主日)聖餐礼拝
聖書    イザヤ書 1章 10-20
      マタイによる福音書 13章 44-52
説教   「天国ーそれは網のようなものー」新井美穂牧師
讃美歌  20、125、379、516、78、83、86、91

10月27日(日)三位一体後第22主日
聖書   詩 19編
ルカによる福音書 18章 9-14
説教   「その言(ことば)は地の極(はて)にまで」 服部能幸牧師
讃美歌  20、485、535、562、91

10月20日(日)三位一体後第21主日
聖書   創世記 32章 4-9、23-31
     ルカによる福音書 18章 1-8a
説教   「夜明けまで神との格闘」  新井美穂牧師
讃美歌  20、155、457、539、91

10月13日(日)三位一体後第20主日
聖書   ルツ記 1章 7b-19a
     ルカによる福音書 17章 11-19
説教   「わが時はすべて汝の聖手にあり」  服部能幸牧師
讃美歌  20 149 453 Ⅰ-532 91 

10月6日(日)三位一体後第19主日
聖書   申命記 4章 1-8
     ルカによる福音書 17章 5-10
説教   「我が神の家にあ青き橄欖の樹」  服部能幸牧師
讃美歌  20 517 475 409 207 83 86 91

9月29日(日)三位一体後第18主日
聖書   アモス書 6章 1-7
説教   「望を己が神、主におくものは福ひ」  服部能幸牧師
讃美歌  371 158 492 527 26

9月22日(日) 三位一体後第17主日
聖書   アモス書 8章 4-7
説教   「富の失する時」  服部能幸牧師
讃美歌   371 Ⅰ-249 383 499  26

9月15日(日) 三位一体後第16主日
聖書   出エジプト記 32章1,7-14節
説教   「限りない忍耐」  新井美穂牧師
讃美歌   371 200 459 542 26

9月8日(日) 三位一体後第15主日
聖書   ルカによる福音書 14章7-14節
説教   「主は義しき者の途を知り給ふ」  服部能幸牧師
讃美歌   371  113  519  570  26

9月1日(日) 三位一体後第14主日
聖書   ルカによる福音書 14章7-14節
説教   「直き者のために暗き中にも光あらわる」  服部能幸牧師
讃美歌   371  61  438  440  75 83 86 26

8月25日(日) 三位一体後第13主日
聖書   ルカによる福音書 12章22-34節
説教   「生かされる命を」  浜田望
讃美歌   371  493  419  520  26

8月18日(日) 三位一体後第12主日
聖書   申命記 8章1-10節 ヨハネによる福音書 6章1-15節
説教   「まことの救い主」  小西淳
讃美歌   371  513  532  456  26

8月11日(日) 三位一体後第11主日
聖書   詩編 38篇10-23節
説教   「生かされる命を」  服部能幸牧師
讃美歌   371  493  419  520  26

8月4日(日) 三位一体後第10主日
聖書   詩編 95篇
説教   「深い地の底も御手の内」  新井美穂牧師
讃美歌   371  6  226  561  423  83  86 26

7月28日(日) 三位一体後第9主日
聖書   ルカによる福音書 11章1,8-13節
説教   「魂に力」  新井美穂牧師
讃美歌   371  55  165  418  26

7月21日(日) 三位一体後第8主日
聖書   ルカによる福音書 10章38-42節(新約聖書 127ページ)
説教   「汝の帷幄のうちに宿らんものは誰ぞ」  服部能幸牧師
讃美歌   371  390  353  281  26

7月14日(日) 三位一体後第7主日
聖書   詩篇 119篇 1-8節 (旧約聖書 958ページ)
説教   「心を尽くして主を尋求(たずねもと)むるものは福(さいわ)ひ」  服部能幸牧師
讃美歌   351  562  339  257  29

7月7日(日) 三位一体後第6主日
聖書   ルカによる福音書 10章 17-20節 (新約聖書 126ページ)
説教   「神をおそるる人よ みな来たりてきけ」  服部能幸牧師
讃美歌   351  362  481  524  467  83  86  29

6月30日(日) 三位一体後第5主日
聖書   詩16篇 (旧約聖書 845ページ)
説教   「汝の外(ほか)に、福祉(さいわい)はなし」  服部能幸牧師
讃美歌   351  328  411  504  29

6月23日(日) 三位一体後第4主日
聖書   詩63篇 (旧約聖書 895ページ)
説教   「喜びの唇をもて汝を讃めたたへん」  服部能幸牧師
讃美歌   351  271  441  511  29

6月16日(日) 三位一体後第3主日
聖書   詩32篇 (旧約聖書 862ページ)
説教   「救いの歌もて、我を囲みたまわん」  服部能幸牧師
讃美歌   351  357  446  535  29

6月9日(日) 三位一体後第2主日
聖書   マタイによる福音書 14章 28-33節 (新約聖書 28ページ)
説教   「右手を取って」  新井美穂牧師
讃美歌   こどもさんびか107  57  470  64  46

6月2日(日) 三位一体後第1主日
聖書   ルカによる福音書 9章 10-17節 (新約聖書 121ページ)
説教   「組にして座らせなさい」  服部能幸牧師
讃美歌   351  289  358  440  436  83  86  29

5月26日(日) 三位一体主日
聖書   エフェソの信徒への手紙 1章 13-14節 (新約聖書 352ページ)
説教   「御国を受け継ぐための保証」  服部能幸牧師
讃美歌   351  356  361  456  29

5月19日(日) 聖霊降臨祭
聖書   マタイによる福音書 12章 14-21節 (新約聖書 21ページ)
説教   「わが霊を注ぐ」  新井美穂牧師
讃美歌   327  54  345  417  419  83  86  27

5月12日(日) 復活後第6主日
聖書   ヨハネによる福音書 17章 20-26節 (新約聖書 203ページ)
説教   「世はあなたを知りません」  服部能幸牧師
讃美歌   327  513  474  405  27

5月5日(日) 復活後第5主日
聖書   ヨハネによる福音書 14章 23-29節 (新約聖書 197ページ)
説教   「心を騒がせるな」  服部能幸牧師
讃美歌   327  206  406  506  79  83  86  27

4月28日(日) 復活後第4主日
聖書   ヨハネによる福音書 14章 1-11節 (新約聖書 196ページ)
説教   「父を知る」  服部能幸牧師
讃美歌   327  351  481  511  27

4月21日(日) 復活後第3主日
聖書   ヨハネによる福音書 11章 17-27節 (新約聖書 189ページ)
説教   「もしここにいてくださいましたら」  服部能幸牧師
讃美歌   327  291  392  453  27

4月14日(日) 復活後第2主日
聖書   ヨハネによる福音書 21章 1-14節 (新約聖書 211ページ)
説教   「さあ、来て、朝の食事をしなさい」  服部能幸牧師
讃美歌   327  332  362  402  27

4月7日(日) 復活後第1主日
聖書   ヨハネによる福音書 20章 19-31節 (新約聖書 210ページ)
説教   「両手を広げ招かれる主」  新井美穂牧師
讃美歌   327  352  329  197  78  83  86  27

2. 2013年度 教会行事予定
 6月9日の主日礼拝は、「こどもの日・花の日」全体礼拝ですので、9時から始まります。
なお、10時15分からは小礼拝があります

教会での諸活動

教会内での各層の集い
青年会、婦人会、壮年会(毎月第4週)
若いファミリーの会(随時)

教会の活動を支える部会
総務、伝道、教育、社会 (隔月第3週)

教会誌「はこぶね」編集委員会

礼拝について

礼拝はどなたでも参加できます。讃美歌、聖書朗読、祈り、説教、献金、祝福の祈りなどが「週報(プログラム)」の順序にしたがって行われます。聖書、讃美歌、交読詩編をお持ちでない方は受付でお貸しいたします。

献金は、礼拝に参加し、神様の恵みを感謝して捧げる行為です。金額は全く自由です。

毎月第1日曜日とクリスマスやイースター等の礼拝では聖餐が行われます。これはキリストの十字架と復活の恵みのしるしであるパンとぶどう汁(杯)を分かちあう礼典です。まだ洗礼を受けておられない方はお取りにならないで、着席して語られる言葉を通して参加してください。