余滴(2013年2月24日)

余yoteki滴
四旬節黙想

「境内で子供たちまで叫んで」
( マタイによる福音書 21 章 15 節 )

2月20日(水)の教団日課。この日、聴くべく示されていたのはマタイによる福音書21章12節以下の「宮きよめ」の箇所。マタイ福音書は子ロバに乗られた主のエルサレム入城の記事に続けて、「それから、イエスは神殿の境内に入り」(21章12節)と記す。神が祝福され続けておられる都に来られた主は、ただちに神殿の「境内」へと歩み行かれる。
そして、ここで行われる出来事は不可解。第一福音書は、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによって来た」(14節)と伝える。さらに、「境内で子供たちまで叫んで」(15節)とも言う。今や、神殿の「境内」は、そもそも入ることがゆるされなかった人々で、そして、数に入らない子供たちで、満ちているのだ、と福音書は言う。律法がイスラエル共同体の構成員とは認めない、「目の見えない人や足の不自由な人」や、年齢的に一人前と数えられない「子供たち」が、イエスをメシアであると「ダビデの子」である、と宣言する。
ちょうど、降誕の出来事の時に、東方の占星術の学者たちが(つまり異邦人が)、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2章2節)と言い、「民の祭司長たちや律法学者たち」(2章4節)に先んじたように、今また、「目の見えない人や足の不自由な人」や「子供たち」が「祭司長たちや、律法学者たち」(15節)よりも早く、明瞭に、端的に、イエスをメシアであると宣言する。「ダビデの子にホサナ」(21章15節)と。「境内」において、神の御前において、権威と周辺はその立地が転じる。そう、それが、「主が来られる」、ということ。
降誕に続く「幼な子殉教者」の出来事に示されている「子供たち」と共に、ここで、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ「子供たち」は、今や、虐げられ、闇に追いやられ、迫害され、殉教させられた者が、その無垢さ、純真さのゆえに辺地から神殿の「境内」という中心へと迎え入れられる。律法学者たちが「腹を立て」(21章15節)る中に、イエスと共に、「ホサナ」と叫ぶ喜びの内に。

余滴(2009年4月26日)

余 yoteki 滴(Y-09-09)

「寝ている間に死体を盗んで行った」
(マタイによる福音書28章13節)

マタイによる福音書だけが伝える復活の記事に、「番兵たちの物語り」とでも呼ぶべき話しがある。 「番兵」とは、墓からイエスの死体を弟子たちが盗み出すであろう、という祭司長たちやファリサイ 派の人々、或いは民の長老たち、などの懸念から、イエスの墓の前に置かれた「見張り」。つまり、 彼ら「番兵」の任務は、外から、墓の外から墓の中を物色するであろう者たちから墓を守ること。墓 への侵入をゆるさなこと。
ところが、実際には、墓は中から、墓の内側から破られてしまう。確かにマタイは「主の天使が天か ら降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」と記している(28章2節)。しかし実際には 、このとき既に主イエス・キリストのお姿は墓の内にはない。主のご復活という出来事が、どの時点 で、どのようなタイミングで、どのように起こったのかは、私たちには判らない。聖書を記した福音 史家たちも知らない。マタイも慎重にこう書く。天使の言葉として。「イエスを捜しているのだろう が、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(28章5-6節 )。復活とは、私たちは起こった出来事としてのみ知る。どのようになされ、どのような過程を踏む のか、ということを私たちが知ることは決してない。
ところで、祭司長、ファリサイ派、民の長老という面々は、復活などないわけだから、弟子たちが死 体を、まさに墓の外からやって来て盗み出して行くだろう、と考えて、外に「番兵」を置く。しかし 、この行為が実に無意味である、ということを、私たちは知る。「復活」とは、墓石の外側で「見張 り」をすることによって阻止しうるものではない。「復活」とは、実に、墓の内側で、墓の中から、 死そのものの勝利が取り去られる、ということとして、キリストの死への完全な勝利として、起こる 。
この「復活」という事実に直面したということにおいては、墓に向かった女性の弟子たちと「番兵」 たちとは一緒。しかし、「復活」の証人となったにもかかわらず、女性の弟子たちと「番兵」たちと の行く道は全く別。その人生の選択は3反対。それはなぜか。 女性の弟子たちは、「あの方は死者の中から復活された」(マタイ28章7節)との天使の言葉を、伝 えるために走る者、とされた。福音の良き香りを伝える者の足は速い。同時に、「番兵」たちもまた 、この真理を伝える者とされた。女性たちよりも早く祭司長たちのもとへと。都エルサレムへと。し かし彼らは福音の良き香りを伝える者とはならない。彼らは祭司長たち、民の長老たちと一つの取引 をする。「寝ている間に死体を盗んで行った」ことにしようと(28章13節)。自分たちの、「見張り」 としての任務の責任の放棄を、彼らは人によって赦され得るものと考えている。
しかし、女性の弟子たちは、そしてまた、女性の弟子たちによって「復活」という真理を伝えられた 男の弟子たちとは、自分たちの「放棄」は、神によってのみ赦される、と知っている。だから、女性 の、また男の弟子たちは、「復活」という事実を知った者としての生き方へと走り出して行く。この 事を伝えるために。今日に至るまで、女も男も次々と。

余滴(2009年4月12日)

余 yoteki 滴(Y-09-08)

あの方は、ここにはおられない」
(ルカによる福音書24章6節)

「週の初めの日の明け方早く」(ルカによる福音書24:1)と福音書記者は記す。イエスの葬りのための諸作業が、未完であることを知っている「婦人たち」(23:56)は、「準備しておいた香料を持って墓に行った」(24:1)。
「香料と香油」は、イエスの遺体がアリマタヤのヨセフが用意した墓に納められるのを見た彼女たちが「家に帰って…準備した」もの。夕暮れは迫り、安息日は始まろうとしている。だから、彼女たちは「家」にあるもので「準備」しなければならなかった。そして、「香料と香油」とは当時、女性の財産。彼女たちの人生の保障。彼女たちは、今、自分のために「準備して」来たものを、手に取る。
さて、安息日が明けるや否や、春の夜明けを待ちわびて墓へと向かう。ルカは記さないが、彼女たちは「だれが墓の入り口からあの石をころがしてくれるでしょうか」と話し合っている(マルコ福音書16章3節)。そう、ここには何の「準備」もない。
「準備」とは備え。「金持ち」は、「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい」、そして自分に言う。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかしその「金持ち」に神はこう言われるだろうと、キリストは譬えの中で教えられる。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と(ルカによる福音書12章13節以下参照)。蓄えとして「用意した」物。これからの生活を支える物。熱心な働き充分な計画、周到な市場予測に従って「準備した」彼の物は、しかし、彼の物とはならない。
女性たちは、自分の将来のため、或いは娘の嫁入りのため、「用意していた」香料と香油を、いまやイエス・キリストのために用いる。そのために整え直す。将来の計画、これからの安心、人生の設計というものが微塵となって砕かれる。イエスが亡くなったのだから。そう、「その時」、人は、自分のために「用意した」ものを差し出す。
いや、人は、「この時」、本当に、自分の将来を保障する「香料と香油」を差し出すことが、できるだろうか。ルカによる福音書12章の「金持ち」は、それはできない、ということを私たちに示す。私にはできない。イエスが亡くなったのだから。私はこの「物」に頼って生活するしかないのだから。そう、私は叫ぶ。
しかし、その時、だからこそ、彼女たちの物語りは私たちにもう一つの、弟子としての、信仰者としてのあり方を示す。「準備しておいた」ものを、主のためにのみ用いる。留まらずに、石のことを思いあぐねずに、「墓」へと歩みだす。主のもとへと。復活の主のもとへと。新しい、本当のいのちの物語りの、目撃者となるために。復活の朝に。主に向かって駆け出していく信仰の物語りへと歩み出す。

余滴(2009年3月29日)

余 yoteki 滴(Y-09-07)

『「150年」断想』(その4)

「根岸外国人墓地」

(JR京浜東北線(根岸線)「山手駅」より「豆口台」方面に徒歩3分)

(「教区青年の集い」墓参箇所 2 )

ヨーロッパでは,教会と墓所とは,密接な関係がありました。かつて,人々は自分が生まれ,洗礼を受けた,自分の村の教会の墓所(churchyard)に葬られました。ところが,都市の発達と共に,人は,その出身地から切り離された都会の「共同墓地」(cemetery)に埋葬されることが多くなったのでした。

幕末から,日本の開港地を訪れ,そこで亡くなる遠来の人々のために,居留地は,仏教宗門とは無関係な共同墓地の必要に迫られました。そして,現在,

横浜山手外国人墓地」として知られるような,共同墓地が造営されることになったのでした( – 「横浜山手外国人墓地」は,一部,山手聖公会の教会墓所(churchyard)としての性格も兼ね備えていました – )。そして,日本の開国,近代化,という歴史のうねりの中で,開港諸都市の共同墓地は,その都市の歴史,文化,社会史的役割というものを反映したその都市固有の観光地となって行くのです。

横浜の観光スポットとしては,「山手外国人墓地」が,確かに有名です。ですが,それ以外にも,幾つかの“外国人墓地”が,横浜にはあります。中でも,「根岸外国人墓地」は,「根岸」という名称が付いていますが,所在地は,「根岸」駅より一つ横浜寄りの「山手」駅付近です。観光客が訪れることもありませんが,地元でも知らない人が多い小さな共同墓地です。名称の由来は,この地が元来,“根岸村字仲尾”という地名だった,からですが,それにしても,ちょっと混乱してしまいそうです( – ちなみに,地元の仲尾台中学が毎年,墓前祭を行っています – )。

「根岸外国人墓地」には,関東大震災で罹災した外国人,特にその子供たちの墓が何基かあります。ご両親の墓が見当たりませんから,或いは,小さな子ども達だけが地震の被害にあい,その後,ご両親は帰国されたのかも知れません。関東大震災という未曾有な災害に遭遇することがなければ,家族揃って国へと帰って行ったのかも知れないのに,と思うと,小さなお墓が,少し悲しげに見えてきます。また,1942年11月に,戦時下の横浜港で爆発炎上したドイツのタンカーと仮装巡洋艦( – 貨客船等を軍が徴用し武装させた船 – )の乗組員の慰霊碑が建っています。

年月と共に摩滅したり倒壊したりした多くの墓石の傍らで,ひっそりと,木立だけが,訪れる人も絶えた,異国で葬られた孤独な魂を見つめ,魂たちを慰めています。

(日本キリスト教団長生教会週報2005.10.2.)

余滴(2009年3月22日)

余 yoteki 滴(Y-09-06)
『「150年」断想』(その3)

「菫学院墓所」

(「根岸森林公園」正面駐車場より徒歩25分。「大芝台」の「根岸共同墓地」内)

(「教区青年の集い」墓参箇所 1 )

1872/3(明治5/6)年,プティジャン司教の招致によって来日したサン・モール修道会( – 幼いイエス会 – )は,横浜山手居留地83番に土地を取得し,メール・マティルド以下4名の修道女で「横浜修道院」,また,「仁慈堂」と名づけられた孤児院を開設しました( – 『横浜もののはじめ考』,横浜開港資料館,発行,は,この時のサン・モール修道会の修道女の数を5名としているが,小河織布,著,『メール・マティルド』,有隣新書の記述にしたがって,その数は4人であったと確認しておく – )。

「仁慈堂」の意味について,スール・サン・ノルベル・レヴェックが,パリの総長にあてた手紙には次のように書かれているという。

「仁慈」には,「憐み,同情,温情,慈善,慈悲などの意味があります」(小河,『メール・マティルド』,p.86)。

幕末に開港地となった横浜で,「孤児」,「窮民」のための施設が,キリスト教会の中から始められた意味は大きい。「菫学院」( – あるいは,「菫学校」 – )は,「仁慈堂」の子女のための教育機関として設置されたが,1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な打撃を受け,以降,「菫学院」及び「仁慈堂」は,東京に同会が設置していた同種の社会事業施設へと統合されて行くことになる。掲載した「仁慈堂菫学院死者之墓」には,「明治十六年六月以後死去 昭和六年一月建之」の文字があり,或る時期,「仁慈堂」あるいは「菫学院」の,先駆的な働きを覚えようとする思いが深くあったのだろう,ということを思わさせられるのである。

ところで,私がこの墓と出会ったのは,偶然であった。そのことを長く記す余地はないが,私は,呼ばれるようにしてこの墓の前に立っていたことがある。

この墓地一帯を横浜のカトリック教会が入手したのは戦前の或る時期であろうと思われ,現在も末吉町カトリック教会の墓所,末吉町教会と山手教会の関係者の墓地があり,戦前,「陸軍兵長」として戦死をしたカトリック信者軍人の「烈忠碑」なども建つ。

私が迷い込んだ20世紀の末には,多くの墓地が縁故者不明になっていた。そして私は,暮れかけた古い墓苑で,足元にある「菫学院」の墓を見ていた。墓には,枯れた花が一輪,残されたままになっていた。開港地ヨコハマが背負って来た孤児たちの記憶。「無縁」になって,訪れる人の絶えた家族墓。十字架の墓石のもと,霊名を記した墓誌に,もはや続く者がいない。慄然とする私に,私とは “無縁” のはずのそれらの墓たちは,親しかった。大丈夫,この世で「無縁」になることは,縁故者がいなくなることは,決して悲しいことではないから。大丈夫,私たちはあなたを待っているから。大丈夫,さあ,あなたの場所に帰りなさい。私は,「菫学院」の墓前で,古い墓たちに励まされ,「また,きっと来ます」と約束をして,やみくもに歩いて来た道を,猫たちに先導されながら帰ったのだった。       (初出:日本キリスト教団長生教会週報2005.10.30.)

*本稿は,2/27?の教区青年委員会主催,「青年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。

*「菫学院墓所」は,この「教区青年の集い」でも墓参し,墓前での礼拝を守りました。

*この項は,2005年10月30日の長生教会週報に記載したものを加筆訂正しています。

余滴(2009年3月15日)

余 yoteki 滴(Y-09-05)
『「150年」断想』(その2)
「神に希望をかけています」
(2コリント1:10)

150年前(1859年)以降,横浜に来た宣教師たちは,インド,中国,朝鮮半島での伝道活動に基づいて,医療と結びついた宣教は有効であると考えていました。そこで,医療伝道者として,横浜にはドクター・ヘボンがアメリカ長老教会から,また琉球には英国国教会のベッテルハイム医師が派遣されました。しかし江戸幕府の鎖国体制下であっても,漢方医,蘭医の医療水準は相応に高いものでしたから,( – もちろんヘボンさんの施療所は流行りましたし,ずいぶん多くの医師がヘボンさんに弟子入りして新しい医療を学んでいます。でも, – )他のアジア諸地域のようにそれがダイレクトに福音宣教の成果とはなりませんでした。

余談ですが,伊勢原における最初の「洋医」である江口次郎人は,鶴岡の人ですが,横浜で西洋医学を学び,伊勢原で,婿入りした江口家を継ぎ「眼科医」を開業しています。横浜のどこで西洋医学を学んだかはつまびらかではありませんが,ドクター・ヘボンの眼科治療薬は爆発的な人気だったようですし,クリスチャンとして,また社会事業家として伊勢原で活動しているところから考えれば,彼とドクター・ヘボンとの間に何らかの関わりがあったと考えてもいいように思えるのです( – 江口次郎人は,伊勢原美普教会に転入しています。洗礼は,横浜で受けた,と考えるのが順当のように思われます。- )。

ところで,1858年に各国と締結された「和親条約」は,居留地内での居留民の信仰生活を保障したものに過ぎず,キリシタンと日蓮宗不受不施派とを禁令とする高札はまだ有効でした。ですから,プロテスタント各派もカトリックも,居留地内の教会として,まず存在しました。

一般の人たちへの布教活動はまだ事実上不可能でした。しかし,そのような中で,1865年3月17日に長崎の大浦天主堂で,一つの「事件」が起こります。この日,プチジャン神父は,200数十年前にカトリック教会が残していったキリシタンの末裔たちと出会います。「マリアさまの御像はどこですか」、と訪ねる浦上の隠れキリシタンたちは,伝えられていた「天使祝詞」を祈り,自分たちがキリシタンであることを言い表したのでした( – 日本のカトリック教会は,この日を「長崎の信徒発見記念日」として祝い,覚えています – )。

このことは,後に「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件に発展しますが,多くの殉教者を出すと共に,その血によってキリシタン禁令の高札は撤廃されるのです。

さて,そのような中,新開港地である横浜では,2つの働きが始まっていきます。一つは宣教師たちによる「英語学校」の開始です。またもう一つは,孤児院です。開港地横浜には,多くの混血児たちが誕生し,多くが非常に困難な状況に置かれていました。横浜では,プロテスタント教会の働きとして,「アメリカン・ミッション・ホーム」が,またカトリックの働きとして「仁慈堂」もしくは「菫学院」が,それぞれ混血児の養育,教育活動を行っていくのです。

初期の横浜は混沌とした新興地でした。一旗上げようとアジアを遍歴してYokohamaに来る商人,船員,技術者。関東一円のあきんどたち。さらに攘夷派。ローニン,警護の諸大名の家来たち。国籍も人種も(英国,米国,仏蘭西,独逸,和蘭,露西亜,中国,等などと)多様で,「鎖国」の間,体験したことがなかった混乱と喧騒と山っ気と商売熱心さと,そして多くの挫折と悲しみがあったはずです。

混乱と困窮の只中にあるだけに,「神に希望をかけています」(2コリント1:10)とのパウロの言葉は,福音宣教者たちの,唯一のよりどころだったと思うのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青 年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。
*横浜は,この「悲しみ」を歴史において繰り返していきます。戦後には,澤田美喜と「エリザベスサンダースホーム」の重要な働きがありました。
*アメリカン・ミッション・ホームは後の横浜共立学園,また「仁慈堂」或いは「菫学院」は横浜雙葉学園のそれぞれ源流となっていきます。

余滴(2009年3月8日)

余 yoteki 滴(Y-09-04)
『「150年」断想』(その1)
「大きな門が開かれている」
(コリント(1)16:9)

150年前(1859年),横浜や長崎に来た宣教師たちは,決して偶然に来たわけではありません。彼らは,周到に用意された(はずの)宣教計画の中で日本を目指したのです。
『英国教会伝道協会の歴史』(ユージン・ストック,編,聖公会出版,2003)は,そのことを1899年の,それも英国側の証言として次のように伝えています。
「中国が福音に対して門戸を開くきっかけとなった戦争に参加していたイギリス海軍の士官の何人かが、キリスト教徒としての愛をもっと東にある神秘的な帝国に及ぼしていた。日本には直接に近づくことができなかったので、彼らは琉球の島々のことを考えた。…1843年、彼らはCMS(英国教会伝道協会)に対して琉球に送る人を求めた」(p.14)。
この,彼らの熱意とポンド立ての強力な資金が,ベッテルハイムを琉球へと赴かせるのです。つまり,アジアにおけるヨーロッパ列強の砲艦外交は,領土利権,軍事利権,経済利権などと共に,アジア伝道という機運も含有するものなのです。
そして,1858年に徳川幕府が各国と結ぶ「和親条約」において(翌年発効),各国は,居留地内での自国宗教の礼拝が認められましたから,宣教師たちはとうとう,「神秘的な帝国」での拠点を確保したのでした。
ですから,1859年,「宣教150年」とは,始まりの年ではなくして,19世紀列強が,一つの結果を「神秘的な帝国」に対して出した,「終わりの年」,一つの終わりによって告げられた新しい始まりの年なのです。
パウロは,コリントの信徒への手紙(1)の結び近く,マケドニアを経由し6コリントに至るという旅の計画を述べる中で,エフェソに滞在する理由を,「大きな門が開かれているだけでなく,反対者もたくさんいるからです」と述べています( 16 : 9 )。福音宣教者が熱心の上にも熱心であるとき,反対者もまた大きな勢力となって出現してきます。パウロがエフェソに感じていた思いは,19世紀の横浜で,宣教師たちが抱く思いでもあったと思うのです。つまり,福音は力強い反対を受ける時にこそ,実に真理としての輝きを増すのだと,宣教師たちの働きは私たちに教えているのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。

*1899年はCMS創立100周年でした。

余滴(2009年2月15日)

「教会暦・行事暦から」(C-09-02)
灰の水曜日 – 2月25日(移動祝日) –
「富は,天に積みなさい」
(マタイによる福音書 6 章 20 節)

「灰の水曜日」(大斎始日)から,四旬節(「レント」,「受難節」,「大斎節」)です。「四旬節」とは,その期間の及ぶ範囲(主日を除く40日間)のことを,「受難節」とは,主のご受難を覚える,と言うことを中心的に考える言い方です。また,「大斎節」とは,主のご受難を覚える私たちの態度です。この3つの要素を併せ持つ時として,「レント」を覚え,守りたいと思います。
歴史的には,4世紀以降,洗礼志願者が過ごす最後の準備の時節としての,復活祭前の「40日間」(クワドラゲシマ)がその起源です。ですが,成人の洗礼者が皆無となった中世以降,特に「大罪」を犯して教会共同体の聖餐の交わりを絶たれた人たちが,悔い改めて教会に復帰するための悔悛の期間ともなりました。
「40」という数字(日数,年数)は,聖書の中では,象徴的な数字(日数,年数)として表れます。ノアの洪水(創世記7:4以下)は,40日間続きますし,モーセはシナイ山に40日間留まります(出エジプト24:18,34:28)。他にも,出エジプトの民の荒野での期間は,40年間(ヨシュア5:6)ですし,エリヤはホレブ山に40日間かけて登ります(列王記(上)19:8)。新約では,イエスさまは40日40夜荒野で誘惑をお受けになります(マルコ1:13)。
これらの記事から,「40」は,その期間の時間的な長さではなく,その数字のうちに含有される精神的長さ(内容)を指し示している,と考えられてきました。
「灰の水曜日」には,その前の年の「棕櫚の主日(枝の主日)」に用いた棕櫚の枝を焼いた灰を用いて,額に十字のしるしをつけ,悔い改めと主のご受難に思いを馳せる40日をはじめます(ですから「大斎始日」とも言います)。そして,すべてをご存知の主に,悔い改めた心をもって仕え,主の十字架を仰ぎ見る力を与えていただくように祈ります。
2009年の教団「特定行事の聖書日課」は,この日のための聖句として,マタイによる福音書 6 章 16 – 21 節を示しています。イエスさまは,断食について教えられる時,それは,「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただきため」(18節)と教えておられます。そして,そのように御父に祈り,御言葉のうちに留まることこそが,“富を天に積む”ということなのだと示されるのです。「富は,天に積みなさい」(20節)と言われる主の御言葉に留まり,主の十字架を思いつつ,この時節を歩みましょう。

余滴(2009年2月8日)

「ふさわしくないままで」
(コリントの信徒への手紙(1)11章27節)


聖餐式の際に,私たちは,使徒パウロによって,「ふさわしくないままで主のパンを食べたり,その杯を飲んだりする者は,主の体と血に対して罪を犯すことになります」(コリント(1)11:27)と教えられ,その,主なるお方については,『「キリスト・イエスは,罪人を救うために世に来られた」,という言葉は真実であり,そのまま受け入れるに値します』(テモテへの手紙(1)1章15節)と示される。「ふさわしくないままで」あり続けるしかない私たちには,それ故,聖餐に預かる前に懺悔と悔い改めとが求められる。だから私たちは,「ふさわしくないままで」,そのままで,神の前に立つことがゆるされていることに驚きつつ,胸を打ちながら悔い改める。そして,ゆるされた者として,和解のパンだねになるために主の食卓に連なる者とされる。
☆★
105年前の伊勢原において,メソヂスト・プロテスタント教会の宣教師たちや教役者たちは,この地に教会を立てることを願った時に,自分たちがそのことに“ふさわしい”とか,教会こそがこの地に“ふさわしい”とか思っていたわけでは決っしてない。むしろ,自分たちの“わざ”が,本当に神の御旨であるのか,祈り続け,神に問い続けていたと思う。それでも日本への伝道を続けて行こうとするのは,「ふさわしくないままで」救いの只中にいる,というこの喜びを伝えようと願ったからだし,そのことは聖餐の恵みを通してしか伝えられないと知っていたからだといってよい。メソヂスト・プロテスタント教会の「式文」である『日本美普教會禮文』に収められている「晩?式」はごく短い。だが,聖餐に向き合う真摯で敬虔な信仰が表出している。
☆★☆
美普教会は大きな教派ではない。日本各地への伝道においても先駆的というわけでもない。むしろ,幕末に,開国以前の日本に,熱い視線を送り,信仰を伝えようとした諸教派に比べれば,その海外宣教は後発的で地味なものだったといってもいい。
しかし,横浜に入港した宣教師たち,その後の日本人教役者たちによって,横浜第一美普教会(現在の横浜本牧教会),横浜第二,横浜第三(この二つは合同し,現在の蒔田教会),平塚美普(現・平塚),伊勢原美普(私たちの教会!),静岡美普(現・静岡草深),熱田美普(現・熱田),名古屋美普(現・中京),四日市美普(現・幸町)などの諸教会と,名古屋学院,横浜英和(横浜成美→横浜英和)などを残して行く。
☆★☆★
教会の歩みとは,人の歩みではない。教会の歩みとは,F.C.クラインから始まる宣教師たちが表敬される歩みではない。教会の歩みとは稲沼鋳代太牧師ら美普教会の教役者たちが顕彰される歩みではない。
教会の歩みとは,「ふさわしくないままで」主に捕らえられ,福音の内に入れられ,聖餐の恵みに与かる者とされた,その喜びを,市井に生きる信仰者として伝えて行く,そのことに尽きる。“キリストは,この私のために,世に来られた”,という言葉は真実であり,そのまま受け入れるに値します,との告白を生きる,こと。
「値します」と訳されている言葉は,本来は,天秤におもりを吊り下げること(玉川)。そこから,重要である,価値がある,という意味が出て,聖書の中では,「ふさわしい」とか「値する」というように用いられる。キリストは,罪人であるこの私を救うために,この私のために世に来られた。その言葉の真実の重みに自分を預けきる,ということが「値します」との聖句を己が言葉とするということ。そのことに人生を賭し続けてきた信仰の先達たちの歩みに,無名の一人として連なって行きたいと,それ故思う。

余滴(2009年2月1日)

「主よ,わたしたちにも祈りを教えてください」
(ルカによる福音書11章1節)

ある時,ペトロさんがイエスさまに,友達のためには何をしたらいいでしょうか,と尋ねました。ペトロさんは,きっとこんな風に考えていたのかもしれません。それは,「友達のために何をしたらいいですか」とイエスさまにお尋ねすると,イエスさまが,
泣いている友達と一緒に泣いてあげるといいよ,とか,
うれしそうにしている友達には,なにかいいことがあったの,と聞いてあげるといいよ,とか,
そういうイエスさまのお言葉を,思い描いていたのかも知れません。
でも,「友達のためには何をしたらいいでしょうか」というペトロさんの質問に,イエスさまは,こうお答えになりました。ちょっと難しいけれど,聖書に書いてある通りに言います。イエスさまは,こう教えられました。
「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)。
ペトロさんは,「えー,それは難しい」と思いました。だって,もっとイエスさまは,“こういう時にはこうしたらいいよ”,って教えてくださるものだと思っていましたから。「イエスさま,それって難しいと思うんですけれども」,ペトロさんはイエスさまに言いました。だって、“いのちを捨てる”なんてそんなことできませんし。
そうだね,ペトロ。その通りだ。でも,今日,この時間,外で遊ぼうとしているこの時間,自分で自由にできると思っているこの時間,自分のものだと思っているこの時間,この時間を,友達のために使ってみたら。そう,ペトロ。あなたがさっき思っていたように,悲しんでいる友達の隣りにいてあげること,一人ぼっちでいる友達と一緒にいてあげること,そういう風に自分の時間を使ってみたら。そしてその友達のために祈ってあげてみたら。
えー,でもお祈りと言われても,どうやって祈ったらしたらいいか,わかりません。
では,ひとつのお祈りを教えてあげる。
そうイエスさまはおっしゃって,お弟子さんたちに“主の祈り”を教えてくださいました。

天にまします我らの父よ,
ねがわくは み名を あがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を,今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を
我らがゆるすごとく,
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず,
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。(1880年訳)

2月には“主の祈り”を覚えます。
もちろん,教会学校に通ってきているお友達はもう知っていると思います。私たちも,イエスさまから“主の祈り”を教わって,そしてお友達のために祈ってあげることのできる一人一人になりたいと思います。
(2009/01/28,幼稚園・会堂礼拝の説教から)